案内編論文編書籍編雑記編

いじめはなぜ起きるのか

多くの日本人は、いじめというと学校でのいじめを思い浮かべる。実際には、いじめは、学校に限らず、社会のいたるところに存在するのだが、範例として学校でのいじめを取り上げながら、なぜいじめが起きるのかをシステム論的に分析しつつ、その解決策を探る。

1. いじめのシステム論的解釈

いじめられる子供は、どのような共通属性を持っているだろうか。不潔だとか、動作がのろいとか、転校生で訛りがきついとか、外国人あるいは混血児であるなどの異質性は、しばしば、いじめの口実になる。優等生とか美人といった嫉妬の対象もいじめられる。要するに、価値的に高いか低いかを問わず、何らかの点で他の同級生と異なっているこどもがいじめの対象となる。

異質の存在者がいると、社会システムのエントロピーが高くなる。そして、エントロピーの高さは、穢れとして意識され、社会システムは、エントロピーを縮減するために、穢れを清めようとする。具体的な事例を見てみよう。以下は、京都市の12歳の女子小学生の証言である。

私の家はお金持ちではありません。だから同じ服を三日間ほど続けて着ることもよくありました。でも下着は毎日替えていました。ただそれだけで、「わァ、三日も着たはる」「きたなァ。さわんな、くさるぞ」と言われました。ある日、学校に登校してくるといつのまにか一番うしろになっていて、机には、「あほ、ふけつ、おまえがさわったものは全部くさるわ、どっかいけ」などと油性のペンで書き込んであったのです。

[朝日新聞大阪本社:なぜいじめるの―渦中からの報告, p.48]

こうしたどの学校でも見られるいじめの風景の中にも、子供なりの触穢思想を見て取ることができる。彼女は、下着の方は取り替えているのだから、衛生上問題はない。しかし、みんなと異なって、三日続けて同じ服を着るという異質性ゆえに、学級のエントロピーを増大させ、同級生から汚いと感じられてしまう。

ここから、いじめの本質がスケープゴートであることが分かる。スケープゴートとは、システムと環境の境界線上に存在し、システムと環境の差異を不明確にする両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である。同級生は、《自分たちとは異質であるにもかかわらず、自分たちと同じクラスに存在する》中間性ゆえに、両義的存在者を排除しようとする。

この点で、学校におけるいじめは、裏切り者の粛清に似ている。裏切り者は、《味方なのに敵》という両義性を持ち、敵と味方の区別をあいまいにする。裏切り者は、敵以上にシステムのエントロピーを増大させるので、敵に対する以上の憎悪をもって抹殺される。「敵ながらあっぱれ」と、敵の勇敢な行為が褒め称えられることはあるが、「裏切り者ながらあっぱれ」と、裏切り行為が褒め称えられることは絶対にない。

2. いじめの構造主義的解釈

菅野盾樹は、彼が謂う所の「構造主義の見地」に立って、E.リーチとM.ダグラスの理論をまとめつつ、「曖昧なものを産出することをつうじて秩序が作られるという、いじめの基本的戦略」[菅野 盾樹:いじめ・学級の人間学, p.72] を説明する。

リーチのいう、中間的な範疇の創出により分類が実施されるという見地は、ダグラスのいう、秩序化が汚れを要求するという見地と立派に両立する。それだけではない。ふたつを一緒にして、一つの社会理論へ統合することができる。リーチが発見した、多少なりとも儀礼的価値を担った中間者と、ダグラスがいう汚れとは、広く存在論の用語でいえば、いずれも「曖昧なもの」に含められる。彼らから学びうることは、存在論に即していうと、秩序は曖昧さの創出をつうじてもたらされるという命題なのである。

[菅野 盾樹:いじめ・学級の人間学, p.47-48]

「中間者」「汚れ」「曖昧なもの」は、私が「境界上の両義的存在者」と呼んだものに相当する。菅野は、いじめにおいて曖昧なものが産出されるというのだが、むしろ逆に、曖昧なものが排除されると言うべきではないのか。いじめという動的プロセスを説明する時には、秩序と無秩序を示差的関係で静止的に対置するだけでは不十分である。もしも、曖昧なものが秩序を作る上で必要ならば、なぜいじめをする者たちは「どっかいけ」と言って、曖昧なものを抹殺しようとするのか。

もう一例を挙げて、曖昧なものの産出が秩序の形成に要求されるさまを観察してみたい。日本語では、「暖かい」と「冷たい」が対立する。それぞれが意味するのは、アルコール温度計の目盛りに代表される連続的な量に、暖かくもなければ冷たくもない中性点、<生ぬるい>がもちこまれてはじめて分節化してくる質である。我々の温度感覚を秩序づけ構造化するのは、この曖昧な<生ぬるさ>なのだ。

[菅野 盾樹:いじめ・学級の人間学, p.44]

おかしな議論である。菅野の論法を使うならば、「合法」と「違法」の間に、裁判官の恣意的な判断でどちらにでも解釈できる「曖昧」なグレーゾーンが存在した方が、白黒がはっきりしている場合よりも、法的秩序が形成されるということになってしまう。

[この]観察は、ある種のいじめに光を投げかける。一九八四年に東京都教育委員会が都内の小、中、高校の生徒を対象に調査した結果では、いじめの動機の首位に「弱い子や鈍い子を面白半分に」があげられている。[…]なぜ彼らはいじめられるのだろうか。曖昧さを背負っているからだ。いや、正確にいうと、彼らに曖昧さが付与されることによって、集団の同一性が集団外のものに対立するかたちで確保されるのである。

[菅野 盾樹:いじめ・学級の人間学, p.44-45]

菅野は、このように、いじめられやすい属性である「弱い」と「鈍い」を「暖かい」と「冷たい」の中間である「生ぬるい」に対応させようとする。しかし、「弱い」も「鈍い」も平均から離れているという意味で、菅野が説明するような、連続している量の中間値ではない。

現実には、ふたつのタイプの子がいじめの対象になりがちである。ひとつは過小タイプ、ふたつは強意タイプである。

[菅野 盾樹:いじめ・学級の人間学, p.134]

「過小タイプ」とは「弱い子や鈍い子」といった平均以下の存在者で、「強意タイプ」とは、「体格がよく成績も良い」平均以上の存在者である。平均以下と平均以上がいじめられやすいという主張は、菅野の《いじめられる対象=曖昧なもの=中間者》というテーゼと矛盾している。

いじめられる対象としての中間的存在者とは、《自分の近くにいる同質者》と《自分の遠くにいる異質者》という《排除する必要のない存在者》と《排除することが不可能な存在者》の中間に位置する《自分の近くにいる異質者》という《排除する必要があり、かつ排除することができる存在者》である。つまり、件の中間性とは、性質の平均性ということではなくて、不可能性と不必要性の間に存在する地平的中間性なのである。

3. いじめをなくすにはどうすればよいのか

なぜいじめが起きるかという話はこれぐらいにして、どうすればいじめがなくなるのかという話に移ろう。これまで述べてきたように、いじめは、社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではないのだから、いじめの問題を解決するうえで、「思いやりの心を育む」とか「心と心のふれあいを大切にする」といった、NHKで教育評論家が口にするようなキャッチフレーズを持ち出しても的外れである。

また、学校や警察や政府がいじめ問題を解決してくれることを期待することも、場合によっては逆効果である。徹底した管理教育を行い、「我が校にはいじめは全くありません」と校長が胸を張る学校ほど、見えないところでいじめが行われているものである。学校の名声が汚されないように、ケガレをキヨメようとすることが、いじめの温床になるのである。

皮肉なことに、しばしばいじめ問題の解決を期待される学校や警察や政府の内部では、子供間のいじめに勝るとも劣らぬ陰湿ないじめが行われている。学校の職員室では、嫌われている教師が当番でお茶を入れると、同僚教師たちは、みんなでいっせいにそのお茶を飲まずに捨てる。お茶の排除を通して、嫌われ者を象徴的に排除しようというわけだ。先生たちも触穢思想の信奉者なのだ。警察で先輩が後輩をいじめるということもしばしば報道される。

永田町でもいじめは盛んだ。もっとも、野党が与党を激しく攻撃しても、それはいじめとはいえない。むしろスケープゴートとしてのいじめの典型は、党議拘束に反した投票を行った造反議員に対する同僚議員たちの冷たい白眼視[h]の視線の中に観て取ることができる。

[h] 私たちは、意中の人を見つめる時には、瞳孔を大きくして、相手を視野の《中心》に置く。それに対して、汚らわしい存在を見るとき、それを視野の《周縁》に位置付けて顔をそむける。だからそのまなざしは、見られるほうからすれば、白眼視なのだ。周縁へと追いやられた汚らわしい存在を視界から抹消することがスケープゴートである。

学校や官僚のような、規則に縛られて個人に自由がないところや、警察や軍隊や政党のような、組織が一体となって敵と戦わなければならないようなところでは、スケープゴートとしてのいじめが起きやすい。いじめをなくすために必要なことは、個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。

学校でのいじめ問題は、最近では下火になった。これは、いじめで自殺するぐらいなら、学校に行かなくてもよいというリベラルな考えが社会に広がったからで、学校から社会全体に視点を広げるならば、いじめ問題は、ひきこもり問題へと形を変えながら、いまだに残っている。

私も、子供の頃から、同級生によっていじめられてきた。私は、自分を殺して周囲と協調することが嫌いだ。だから、同調圧力の強い日本社会では、どこに行っても浮き上がり、疎まれ、最後は排除される。しかし、私は、自分が落ちこぼれのひきこもりだと卑下してはいない。なぜならば、現代は、もはや、ピラミッド型組織に没個性的に所属し続けることがベストであるような時代ではないからだ。

読書案内
書名 いじめ・学級の人間学
媒体 単行本
著者 菅野 盾樹
出版社と出版時期 新曜社, 1986/06
[投稿者:永井俊哉|公開日:2001年6月 2日|コメント:37個]
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コメント(37)

私は個性を失くしてでも他者(学部内の知人)との調和を図ろうとしているのですが、どうしてもその他者全員とは上手くやっていくことが出来ません。 数人に嫌われてし まうのです。 そこで理由として生理的に嫌うという言葉が挙がりました。

生理的に嫌うというのはどういうことなのでしょうか? いじめなど社会的な心理現象は理解できます。 しかし個人的な心理レベルでの対策が分かりません。 総ての人と調和させるのは無理な話なのでしょうか?

生理的に嫌うというのは価値的に上、下であるという嫉妬も含まれるのですか?

例えば、友達にgood-lookingでかしこい人(A君)がいますが、 A君は私から見れば、自分に自身があってその余裕からなのか、元々性格が良いからなのか分かりませんが、誰にでもやさしい人です。

けれどもA君と私の知人(B君)が会話を交わす時とてもぎこちないのです。 B君は私から見れば言い方は悪いですが、 価値的にA君より下だと考えていて、 そのぎこちない雰囲気はB君の嫉妬により作り出されているのではないかと考えています。

いじめはスケープゴートだということは理解できました。

「誰かを生理的に嫌う者の深層心理」 というのは、 個人的な心理現象であるため、一般に論ずることはできないのでしょうか?

もし良ければ永井先生の考えをお願いします。

“「誰かを生理的に嫌う者の深層心理」 というのは、 個人的な心理現象であるため、一般に論ずることはできないのでしょうか?”

生理的に嫌っているものを食べると吐き気を催しますね。生命というシステムは、環境との間に複雑性の落差を設けることで、自己を維持しています。カタルシス、すなわち異質なものを排除することは“生命の原理=生理”です。社会は一つの生命体ですから、カタルシスは、個人レベルでも社会レベルでも起きます。以下も参考にしてください。

◎ 人はなぜ笑うのか
http://www.nagaitosiya.com/a/laugh.html

◎ 人はなぜ泣くのか
http://www.nagaitosiya.com/a/cry.html

◎ 芸能人とはいかなる存在か
http://www.nagaitosiya.com/a/entertainer.html

カタルシスで排除される異物は、平均からかけ離れた存在で、A君のように価値的に高いか、もしくは低い人がスケープゴートのターゲットとなります。

 いじめは、原則的に「いかなる理由があろうとも、いじめはいけないことだ。」と先鋭と保護者が子供に断言するところから根絶が始まるのが誰も大学に進学しないような面々の間での常識ですが、この考えはこの議論だとどこにはいるのでしょうか。

 永井さんの「他人の意見に賛同せず」というスタイルのルーツを垣間見た気がします。

 僕も幼い頃いじめを受けた身として分かりますが、それはさておき……。社会学の講義を聴いたことがあるので、永井さんの論に付け足す形ですが、第一に、「いじめ」における定義の必要条件は「争う」というファクタで、社会学的に「コンクリフト」と呼ぶと聞いたことがあります。永井さんの言う〝システムと環境の差異を明確にする両義的存在者を排除すること〟つまりスケープゴートも「コンクリフト」の一過程と解釈できます。社会、あるいは国家、国際社会というシステムから見れば、どこかで争いは局所的に起こっているもので、総じて何らかの存在を排除しようとする、戦争、紛争、裁判、夫婦喧嘩などでも似た構造を取ることがあります。いじめは、それらの集合の部分集合という形でしょうか。

 第二に十分条件を挙げるとすれば「大勢の目に晒されることなく、陰湿的に」というものです。つまり、いじめ加害者のグループ(あるいはシステム内部の個体数?)は相対的にマイノリティであることでしょうか。それ以上増えるとすれば、何らかの権力的存在(教師、親、マスメディア、等)、あるいはマジョリティグループに認知され(何とか委員会、多くの人間等)、問題対処、排除、鎮圧される可能があり、もし、それでもいじめが成り立ち続けるとすれば、それはいじめではなく、別形態の「争う」になってしまうからです(権力に認知されたいじめというのは、蹂躙と言ってもいいかもしれない)。

 つまり、決してマジョリティに転じない小規模ながら安定した構造をとっているものがいじめと言えるでしょう。

 また「争う」はただ無秩序状態であるということではなく、そこで起きた何らかの「問題」あるいは「葛藤」をマジョリティに提示する必要悪的な機能を果たしています。争いが起き、社会に認知され、初めてそこで双方の要求を交渉し、目的の再認、妥協、あるいは一時的な対処が行われます。そうやって社会のシステムが進化していきます。裁判はそうですし、テロも犯行声明を出します。しかし、いじめにはそれがありません。むしろ自らの問題を大勢から隠蔽するスタイルを取っているような、あるいは問題すらそこにない気がします。いじめる理由が曖昧(あるいは理由などない)なのもこの点ではないでしょうか。「何となく、むかついたから」とか「いやな感じの奴だったから」とか。

 たとえばの話ですが、あるとき世界レベルで、同時多発的に争いが起こったとしますが、それらはやがて世界戦争に発展するか、あるいは矮小化して局在的に紛争が続くかのどちらかですよね。そういった戦争が、小規模な同族集団や国家という共同体を形成させる、というのも頷けますし、永井さんの〝スケープゴートとは、システムと環境の境界線上に存在し、システムと環境の差異を不明確にする両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である〟という論にある通り、いじめを通してある種のグループを形成するということも、同意できます。

 なので、もう一つの結論として、いじめは人間の「権力への欲求」だと思うのです。つまり、いじめとはグループ権力への欲求が満たない、という葛藤の一時的な逃避である。あるいはそれを通じて、子供が社会的能力の身につけ方を本能的に履修している、といういじめの心理学的解釈です。いじめには法的罰則がない利点や、目的性の無さ、小規模ながら崩壊し難い点ということから、非常にコンビニエンスかつプリミティブなシステムだと思います。

“十分条件を挙げるとすれば「大勢の目に晒されることなく、陰湿的に」というものです”

ナチスのユダヤ人迫害のように、公然と行われる場合は、いじめではないのですか。

>>ナチスのユダヤ人迫害のように、公然と行われる場合は、いじめではないのですか。

 はい、これについて暫く考えていたのですが、ナチスのユダヤ人迫害をいじめと呼ぶには規模が大きい気がします。同様に、テロと戦争も規模も意味も違うものです(これは喩えです)。またいじめの捉え方について永井先生とは違うかも知れませんが。

 ただ、厳密に違うか否かと聞かれたのであれば、スケープゴート(必要条件)という点で同じだと思いますし、そういった見方があるということは僕にとって新しい価値を与えて貰いました。

 けれども十分条件に於いて違うものがあるという僕の考えは先に言った通りです。「迫害」「虐殺」など「虐め」という言葉もあるとおり、共有する部分はありますが、完全に置換可能なものであるのか、同じ解釈でいいかどうか、議論が別れるところでしょう。

 また、僕がいじめに関してイメージしたものが学校や職場のようなものという意識が強かったせいかもしれません。

 権力による(永井先生のいういじめ」「迫害」「虐殺」と、職場や学校で起こるいじめを同じものにしてしまった場合、議論の上で不都合があるか、ないかで選択、決定すべきではないでしょうか? 永井先生の場合は、ユダヤ人迫害やいじめにスケープゴートという構図があり、それらについて論を進めていたので特に不都合はないと思います。それらを現実世界に再解釈した場合、ナチスの行ったことが、身の回りでも起きているかどうか考えていけばいいと思います。

 正直本当に返信して貰えるなんて思ってもいなかったので、少し驚いています。たどたどしい言葉ではありますが、まだ二十歳そこそこの学生なのでご勘弁を。哲学も好きですし、こういった議論も好きです。永井先生のような頭のいい方の話も刺激的なので、こっそり応援しています。

いじめている人間はいじめられた人間がきっと口をつぐんでいるだろうとおもっている。いじめられる人間に問題があるといつもいつもいわれてきた。自分を変えよう人をゆるす心をもちなさい。とか、いじめる側に都合の良いことばかりの本を読んでいじめられる側はじっと耐え忍んでいる状況。いじめにばっそくがないからとかではおそらくもうすまされない状況におかれている人々がたくさんいるにもかかわらず。いじめた人間はグループをくんで今日ものうのうと「あ~いじめるやつがさってよかった。次はだれにしょう。」と思っていると思う。それに対して警察はあまりにもいじめられたがわにとり非協力的な態度だったし、職場も学校もあまりにも無力でなさけない。結局、被害を受けた人間が、自分で解決しなければならないとは、いったいなんて情けない状況なのか。いじめられる人間が毅然とした態度で臨めとあるが、それで、いじめを
やめるような人間たちではなかった。全員20代後半から30代の人間たちは、その人生の大半をいじめと共にいきてきたらしく、一部の人間にはそれを楽しんでいる。いやみたらしい顔でのぞきこんだり、また、いじめ窃盗を共犯させいじめグループにする。あまりにしつくしらばっくれていじめをくりかえしてつかまらないからとたかをくくっている。こういう人間たちは上司からきつくおしかりを受けたって、なんとも思わない人々だと思う。ほんと、精神が病んでいるのいだ。と思う。

私は、学校から虐めのことを調べてここにきました。

なんで虐めはあるのだろう、なんで起こるのだろう、と
疑問に思ってきました。

苛められる理由とか、わかりません。
苛められてる自分がイチバン、苛められる理由が
わからないと思います。

もっと調べてみたいと、希望がわいてきました。


(ウィル)

私は、五年生です。二年生の時は、思い出したくありません。
ほかの子と遊んでて教室帰ったら、その子はされてないのに私は、男子にお腹を殴られました、「遅いねん!はよ帰ってこいや」と・・・
その子は、逃げるかのようにサササ、と自分の席に座りました。ひどい!
私だけ悪いのですか?なんで私なの?

ほかには、給食のときはストローやゴミを集めたり、お皿(食器)を集めて給食室まで持っていくという決まりがありました。
(班で1番の人や、2番の人をきめて、1番の人が食器、など)
で、私が3人班だったときのこと。
一人が「おまえ、全部持っていけや!」「そうや!チビやからもっていけや!」
私は、勇気や根性がないので、断れませんでした...
私は、結局もって行きました。
(チビだからって、なんで持っていかなきゃダメなわけ?
そうゆうアンタだって背高いくせに!のっぽは持っていかなくていいの!?)

私は、自殺や転校ほど苦しくはありませんでしたが、
今振り返ってみると、結構苦しくなりますね。

動作がはやい/のろい、背が高い/低い、どちらも、中心(平均)から外れることでいじめの対象になりやすいようにみえますが、実際には、動作がのろい、背が低いほうがいじめの対象になりやすいようです。

人にいろいろと言われて我慢ができない人・できる人がいる。ほとんどの人は
いじめを我慢できない人がほとんど。私は、いじめられたことは一回も無いのですが、いじめたことも一回もありません。いじめられたことが無い私だけど
、苦しんでる人の気持ちはわかる。「死にたい、死ねばいいんだ」って思ってしまう時が沢山あると思う。それはショウガナイ。人をいじめている人は最悪の心の持ち主だから。「助けて」って言いたいのに頼れる人がいない、自分で
抱え込むしかできない苦しさ。わたしはそうおもいます。
なので、インターネットチャットをやれば、一人じゃない。話す人だってきっといるから。

混血児がいじめの対象になることもあります。完全な外国人よりも外見が日本人に近く、日本語を話し、日本の名前とパスポート持っていてもです。

子供のときから、外見がみんなと違うことで毎日のように「醜い」といわれました。顔が変だから、という理由で遊びに入れてもらえなかったり、日本人コミュニティーから無視されたりもしました。日本人なら、黒髪で、顔が丸くなくてはいけない、茶髪、天然ウェーブ、細長い顔は外国人という概念があるのでしょうが私は単一国家の風潮の強い日本で生まれたことで子供のころから苦痛を味わいました。

日本はいまや移民国家ともいえるほど外国人も多いのだから、違いを受け入れる教育、同じ純日本人同士であっても違いを受け入れ尊重するべきなのに。

私は今海外に住んでいますが、日本人にはいまだにいじめられつらい思いをしました。ジャパニーズレストランで一緒に働いていた日本人の女の子たちから集団無視されました。仕事における大事な情報を私だけ教えてもらえない、フレンドリーに笑って話しかけても答えてももらえない、まるで私がその場にいないようなそぶりで日本人の女の子たちのカンバセーションがはじまる。私が話しにあいずち打っても話始めてもなにも取り合ってくれない。私はそのあと、ストレスで過呼吸症になりました。

海外で国際人の一人として海外に住んでいる日本人でさえ外見が少し違うけど、同じ国籍の日本人を受け入れられない。私は日本人なのに、私は彼らと同じだと思っているのに、日本の人たちはそうは思わない。だから私は日本の名前を使うのをやめた。日本人に受け入れられない日本人なんてもはや日本人ではないと思うからだ。私はこっちで日本の国籍を捨ててオーストラリアのパスポートに変えるつもりです。家族や親友以外の日本人とはかかわりたくありません。

“混血児がいじめの対象になることもあります。完全な外国人よりも外見が日本人に近く、日本語を話し、日本の名前とパスポート持っていてもです。”

混血児のような境界上の両義的存在は、完全に外部の存在者よりも、いじめられやすいのではないでしょうか。あるアメリカ人は、「下手な日本語を話す外国人はお客さんとしてもてはやされ、丁重に扱われるが、流暢に日本語を話す外国人は、逆に気持ち悪がられる」と言っていました。日本人が、日本人としての自己同一を維持する上でターゲットとする排除の対象は、明らかに日本人とは異なる外国人ではなくて、日本人のようで日本人ではない紛らわしい人ということです。

それにしても、カタリナさんよりも、狭い世界にこもっている日本人の方が心配ですね。いつまでもナショナル・アイデンティティに固執しているようでは、日本人は現在のグローバリゼーションには対応できなくなるのではないかと危惧します。

いじめって何なんでしょう。
私はいじめでする人が信じられません。暴力を振るったり陰湿ないじめをする人が。
自分がもしそんな陰湿ないじめを見たら止めてやるくらい思っています。
なぜそこまでひどいことができるんだろうと。
けど、私にも嫌いな友達はいます。前は仲が良かったのに今は前より避けたり他の友達にその子の悪口をいったり。
そのせいで私の友達もその子のことを嫌うようになったり。とその子のことを嫌う子が増えてきたりしていて。こういうところからいじめがはじまることもあるし‥。
でも嫌いな子もいてもしょうがないし、友達に嫌なことがあったら話したいというのは普通のことだと思うし。どうなんでしょう。

“自分がもしそんな陰湿ないじめを見たら止めてやるくらい思っています。”

止めようとすると、自分までが仲間からいじめの対象になるとしても、そう思いますか。

ここを読んで、いじめは本当にスケープゴートだと思いました。
いじめをする側(その中でも特にリーダー)は不満を持っているはずです。それは、いじめられる側とは関係のないことでしょう。何かきっかけはあるのでしょうが、とにかくいじめられる側はスケープゴートとして利用されていて、「きもい、のろい」などはそれほど重要でない気がします。
周りがいじめに加わってしまうのも、不満や不安があるからでしょう。
いじめをなくす、いじめのない社会は、一人一人が自立した社会……永井先生のご意見にはっとさせられました。
一人一人がスケープゴートを持たずに生きていける社会、自立していて個性があって多数か少数かだけではない社会。
それがこれから進んでいくべきところなのかなと、私は、思いました。

俺も小3から中3の今もいじめられてます
それも同じ人にです
どうやれば解決できますか?
相談しましょうなどそんなのは嫌です
どうせ相談しても解決しません
小3のときに先生に言いましたが
謝ってもらえば
と言われました
しかしそんなこと言って謝ってもらっても
何の特にもならないし
謝ってくれるわけないです
小6のときも先生に言いましたが
一度話し合いがあって
そのときは反省したのかな?
と思ってましたが
そのときだけでした
結局いじめ君には何を言っても同じなのです
何か大切なものをなくしてからやっと気付くのだと思います
でも高校まで我慢すればいいのですが
我慢できる自信はありません
それに復讐をしたって
また復讐を生むだけです
俺は復讐をしてやりたいのですが
皮肉にもまた復讐されるだけです

どうすればいいんですかね?
俺はこのまま落ちて行って
挙句の果てには知らぬ間に死なんてこともあるのでしょうか?
もう心がずたずたです
キャベツの千切りのように切り裂かれました
お願いします
いいアイデア教えてください

もしも死ぬほどいじめられているのであれば、学校に行かなければよいのではないのですか。高卒認定を受けて、バイパスで大学に入るという方法もあります。自営業をするという方法もあります。視野を広くすれば、生き続けるためのいろいろな選択肢を見つけることができるでしょう。

あどばんすさんの意見には絶句しました。安直すぎると言わざるを得ません。


waterさんのいじめが熾烈極めるものだと仮定します。

いじめという圧力に屈して、現在ある環境を手放すように仕向けられて行動させられる点にアンフェアーを感じざるをえません。これでは暗黙的にいじめは正当化されるのではないでしょうか?

生きるためにはどんなことでも出来るでしょう。しかし、平等な教育を受ける環境を手放させるような形にすることは家庭への負担、および、その人の経歴や学力に大きな影響を及ぼすでしょう。

waterさんはいじめられた日記を詳細につけて(録音や録画などがあると望ましい)いじめを告発されることによって利害関係のないところ(学校の場合は校風によって黙殺されたりする。)にしかるべき対応をとらせるように地道に活動することです。弁護士つけて民事訴訟などかな?


いじめは跡付けの理由によっていじめた人はいじめを正当化しようとします。話し合いは無駄です。

「何か大切なものをなくしてからやっと気付くのだと思います」は理にかなっています。

いじめを止めさせるにはいじめを行うことによって何か大切なものをなくしてしまう社会構造を作り上げることでいじめ行為に対する圧力となるでしょう。

皮肉にもいじめを行っている者は
「復讐」という対抗策を持っているwaterさんに対してさらに酷い「復讐」を行うという構造を作り上げているのでwaterさんを無力にさせようと圧力をかけています。

“koreha hidoi”さんへ

学習塾でいじめが起きている場合でも、あなたは、同じアドバイスをしますか。学習塾がいじめを放置しているなら、その学習塾をやめて、もっとまともなところに行けばよい。生徒が減って困るのは、学習塾の方です。塾を変えることが家庭の負担になることもなければ、経歴や学力に大きな影響を及ぼすこともありません。

もとより、学習塾では、学校のように、いじめが起きることは、あまりありません。なぜならば、私教育では、選択の自由がふんだんに与えられており、生徒は、学習塾を機能集団と受け取り、帰属集団としてのアイデンティティを求めていないからです。いじめをなくすためにも、私は、公教育を廃止するべきだと思います。

あなたは、学校を、何が何でも所属し続けなければいけない帰属集団と考えているようですが、多くの人がそう考える結果、学校が逃げ場のない運命共同体になってしまっていることが、いじめ頻発の原因になっていることに気付いてください。学校でのいじめをなくす根本的な解決策は、学校を、在籍することに意味がある帰属集団から、勉強するためのたんなる道具としての機能集団へと性質を変えることなのです。


いじめは古くて新しい問題、議論をどれだけ尽くしてもこの世からなくなる日は多分こないのではないでしょうか。そういう自分もいじめられてきた一人です。自分の場合
新聞配達を始めた中学3年頃から状況が一変しました。
朝5時頃に起きて150部の新聞を配達し、終わったら真冬でも暑くてたまらず行水をしていました。それまでは勉強もできず、虚弱体質でしょっちゅう風邪をひいては休む落ちこぼれだったのです。新聞配達で身体が丈夫になり朝一から運動、行水のおかげで頭の回転もまえよりずっとよくなりました。新聞配達をするクラスメートも偶然知り合えて親友になれました(この子はクラスでもけんかの強い子だったのもラッキーでした)

人生塞翁が馬という言葉があります。
自分もそろそろ孫ができる歳になるといやのこともあったけどそういう事があって成長できてきたんだなぁとしみじみ思うこともあります。やはり問題がふりかかってきたら基本自分で解決すること、あと相談するのも大事ですが受けたアドバイスを無駄にしないよう実行に移す勇気も大事です。人の心をくみ人に好かれるような人間になることは社会人として今更自分が言うことでもない事だと思います。
決してその場で解決してしまおうなんて欲張らないのもいいと思います。
永い人生、へこまされてる時期もそりゃぁ誰だってありますよ。
そういう時のしのぎが人間性を味のある深い物にしてくれるんです。
そういう自分を逆に笑い飛ばすくらいの度量を身につけましょう(^^♪

ではまた。

個人的に、いじめは触穢思想によるものの他に、いわゆる順位決めのマウンティングとしてのものもあるのではないかと思いますがいかがでしょうか?
母権色の強い日本では、触穢思想によるものの方が多いでしょうが、特にアメリカのハイスクールでのいじめは、むしろマウンティングによるいじめである傾向が大きいように思います。

マウンティングによっていじめが起きるというよりも、マウンティングの秩序を破り、システムのエントロピーを増大させる違反者が、カタルシスのターゲットになっているというべきでしょう。上位者に挨拶をしなかったために、群れのメンバーから殺されるというケースが人以外の霊長類でも報告されています。

私も動作が遅くて、鼻炎もちだったのでいつも鼻をたらしていて、転校生で方言も違ったので小中でいじめられました。よく登校拒否もしました。勉強は好きだったので、もっと自分を自由にしてくれる所を見つけに個人主事を尊重するアメリカに高校から留学してとっても楽になりました。学校で一人でお昼を食べるのも、自分の車で一人で登校するのも、一日中会話しなくても誰にも躊躇されませんでした。日本人は他人へのかんしょうが多すぎますね。

今私は34歳です。今になって見ればいじめっ子だった人たちの大人になった姿はあまりぱっとしない人生を送っている人が多いと思います。要するに一生懸命夢中になる物がないから、暇つぶしに他人を一生懸命いじめたのでしょう。人間は何かに夢中になれれば、他人はどうだっていいのです。世界の大富豪も小泉元首相も個人主義者です。他人がやってないことをするから成功するのです。他人はどうでもいいう個人主事的な考え方を日本でも子供に教えるべきです。

追伸

いじめられていて、どうしても耐えられなかったら学校を変えていいと思います。辞めてもいいです。あなたは決して負けたのではありません。あなたは合わない場所にいただけです。大人になってしまえば嫌な他人と接しなくても生活費を稼げる職業はいくらでもあります(プログラマー、グラフィックデザイナーなど他人と他人と違った人のほうが成功する職業はいくらでもあります)。下らないいじめっ子などを眼中におくだけでも時間の無駄です。人生は一度です。無駄な時間はありません。

ただ一つだけ、自分が夢中になれるものを探してください。ファッション、テレビゲーム、何でもいいです。自分の好きな事、自分の才能を伸ばしてください。自分に合った仕事ができる人は幸せですよ!今の世の中社会性がなくても才能さえあればできる仕事はいくらでもあります。下らないいじめっ子達のように貴重な若い時間を無駄にしないでください。

若い時の脳みそは柔軟です。私は15歳でアメリカに渡り、2ヶ月で英語がペラペラになりました。しかし21歳でフランスに留学した際は3年いてもフランス語がそれほど上達しませんでした。若い時は限りなく才能を伸ばせます。

人生は一回です!明日の朝起きたら大声で「ハッハッハ!私はラッキーだ」と叫んでください。自分がラッキーで特別な人間だと信じることで毎日が違ってきますよ!

他人はどうでもいいのです氏の持論、いじめられたらその場を離れる。共感しました。
エジソンや坂本竜馬の伝記にも載っている有名な話です。
エジソンや坂本竜馬は教師にいじめられたようですが。
逃げ場(その人にとっての安全地帯)があれば、何とかしのげます。
逃げるのを卑怯という風潮がありますが、「栄光ある撤退」といえばいいだけのこと。


いじめをなくす?
古今東西、いじめのない共同体(コミュニティ)は聞いたことがありません。
無理ですね。
学校でいじめがなければ社会人になってからのいじめに耐えられません。
学校はいじめをどう防ぐかを学ぶ場所。

いじめを受けないように予防線を張っておくのが最善策。
上級生・暴力団・警察・親・・・なんでもいいから光背を作り出して「こいつに関わりたくないな」と思わせればいじめは止まります。「お父さんの友人に弁護士がいるから、今度いじめの裁判おこそうかな。」なんてつぶやいてみたい。
もう一つ。とにかく目立たないように演技すること。質問されたらまじめに返答するのではなく、話題をかえたり、ちょっとウソをついてみたり。
「きもいんだよ、死ね。」
「きもいって気持ちいいってこと?もっと言って。」
仲間が必要なので穏やかで抵抗しない仲間の輪に加わるのも一つの方法です。

ニッコロ=マキャベリ
「愛されるより、恐れられる方が、はるかに安全である」


僕は現役女子高生ですが、、毎回学校に行くたびになにかしら
虐めとなんやら変わらないことをされています。

教室を少し出ただけでドアを閉められ入れてもらえなかったり、、

男子につねられ、叩かれたり、、

クラスの子達全員で僕のことを大声で貶したり、、

学校にいくたびに足を5回は踏まれます。。

ノートに落書きもされれば、、靴が頭に飛んできたこともあります。

ですがね、、僕はそれを虐めとは思ってないんですよw
僕はよく、かなり個性的だと言われます。成績も悪いし、オタクです。

だけれども、僕はそれを隠すつもりなんてないんです。
いや、入学したときは隠そうと思っておとなしくしていました。
でもうまくいかないんですよwこれがww

ありのままの方が開放的で楽しいし、みんなも警戒しない。

だけれど僕はクラスのいじられ役です。
虐められではなく、いじられなんです。
虐められる子供子供って本気で五月蝿いんですが、、

虐められる方が悪いんです。

つか虐められてるなんて思う方がどうかしてる。
そう思ってしまったら、負け。
なにかされたって本気で嫌なとき以外は笑顔で冗談のように返す!
それで冗談になる。。

僕は自分のプライドが許す限り、何かされても大抵は許します。
たまには怒ります。
クラスに一人は必要だと思うんです。そういう奴が。
つかたぶんいるんだと思います。

それが虐めとなるか、いじられっことなるかは
本人の努力しだいなんだと僕は考えています。。

虐めなんてね、、本当はそんなに深いことではないんですよ、、

長くなって申し訳ございませんでした。。

“僕はよく、かなり個性的だと言われます。”

女子高生が「僕」を使えば、それだけで「個性的」であり、いじめの対象となると思います。つまり、男と女の境界をあいまいにしているのですから、カタルシスのターゲットになりやすいということです。


私は 中国の大学日本語科の学生だ。高校生の時、日本で特に学校でいじめ現象がよく起きるとききました。当時は、とても理解できなっかた。今になっても、納得できません。なぜかというと、日本民族は単一の民族だと言えるでしょう。だがら、みんなできるだけもめ事をおこらないように、角もたたかないように、自己抑制して、チームと協調して、「和」を保つのではないでしょうか。また、日本人はよく「集団意識が世界でも一番強い」といわれました。では、なぜこういうふうにいじめがよく怒るのかはりかいできなっかた。 

“日本民族は単一の民族だと言えるでしょう。だがら、みんなできるだけもめ事をおこらないように、角もたたかないように、自己抑制して、チームと協調して、「和」を保つのではないでしょうか。”

一般的に言って、等質性の高い集団ほど、その集団の等質性を高めようとして、異物を排除しようとします。だから、等質性の高い集団の方が、いじめを発生させやすいのです。いじめと「和」は相容れないと思うかもしれませんが、いじめは、いじめる側の結束を高めるので、チームの「和」を強化します。逆に、雑多な個人の集合体では、「我々」という意識を共有する固定的な多数派が形成されにくく、またどの個人もスケープゴートになる潜在的リスクを持っているので、いじめは起きにくくなります。


“いじめをなくすために必要なことは、個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。”
 どのような社会構造が考えられるでしょうか。例を挙げて頂きたいです。

例えば、個人が、自由に教育の場を選ぶことができたり、容易に起業できたりする社会です。

さつじんじっけんをとめてください。ぎゃくさつをとめてください。

えんかくへいき、のう・しんりぎじゅつをつかったごうもんさつじんがおきています。ようしょうじの
かていやがっこうなどをとおしてごうもんをうけています。しんにゅしゃがかぞくゆうじんせんせいなど
になりすましさつじんじっけんをおこなっています。わたしたちはがっこうのいじめだとおしえられて
います。すくなくとも30ねんいじょうまえからおきています。さつじんじっけんはほうちされ、ますます
かこくなごうもんがおきています。ほんとうのことがしらされずしんりぎじゅつのあくようにはどめがあり
ません。じんみんぎゃくさつをとめてください。

 遠隔兵器を使った殺人実験にあっています。リアルタイムで
特定の脳活動を標的とする拷問にあっています。侵入者がさまざまな
人物になりすまし、心理技術、扇動を行っています。大学の講義で
教官の言動も行っています。わたしが理学部のときに言動虐待を
やっていた先生がテレビに出ています。テレビでもスパイ発言は
行われています。テロ活動が公然と続けられています。少なくとも
70年代から人民虐殺は続いています。


 心理技術を使った人民虐殺に歯止めがありません。殺人技術と
区別しがたい方法は日常的に乱用されています。社会には心理技術を
容認するあまたの口実があります。しかしながらそれらは人間に
危険な方法です。虐殺者のための技術を停止してください。日常的に
行われているもの、たとえば、交通標識の書き方や光源の利用は
視覚に安全だとは言い切れません。なぜ殺人技術が人間に使われる
ようになったのかを解明することが必要です。教育的な利用も甚大な
問題です。人類に与えた損害に向き合ってください。諜報扇動をやめ
てください。


 スパイを支援し不法な言動を行っているやからの口を引き裂きましょう。
私には大学の先生方がなぜ人前で喋っていられるのかわかりません。
人々の力で虐殺犯罪者の完全処刑を実現しましょう。

小学校のときに複数かつ同一の人に5年間いじめられ、成人してから同一の人を見てPTSDになりました。
恐怖でいっぱいで出かけられなくなりましたが、今はまったくの健康ですが
復讐したい気持ちでいっぱいでいじめた経験のある人が憎いです。
そういう環境に行くなら死んだほうがマシです。
学校に行かなくても仕事しなくても家族とだけ暮らせる今が幸せです。
私はいつ殺されても死んでもいいです、こんな世の中で最後まで生きようとは思いません。
無職ですが金がなくなって死んでも後悔しません、こんな酷い世の中怖いです。
いじめや犯罪が憎いです。
いじめられた経験のない人は、どうか助けてください。
助けるために動いてください。

いじめを理屈で解決しようなんて思わないでください。
力を行使できるようにしてください。

いじめに論理的理由などない。

いじめる理由が時代で変遷してきているのを見るとわかるだろ?
意味などないのだ。

いじめは意味なく他人に苦痛を与える行為。

同じ人を攻撃するのが行動習慣になってるだけのただの反射だよ。
人間はそれほど賢くないし、攻撃することを学習した人間がされたように他の人にするだけだ。

他の生き物だって生まれて間もないうちに危害を加えられ恐怖を感じると近寄ってきた他の同胞を意味なく攻撃するようになる。
これと同じだよ。
傷ついた生き物は不安でいっぱいで攻撃的になるだろ?
リストラの恐怖で無意味に他者を衝動的に攻撃してるだけだろ?
仲間はずれのひとりにされる恐怖で他者を攻撃して孤立させてるだけだろ?
ひとりになるのが怖い、リストラされることが怖い、のが本心なんじゃないか?
だからあらかじめひとりになった奴を作っておく、だからあらかじめ組織からはずれた奴を作っておく!!!
そうだ、まさに考えてみたらその通りだよ!!!
脆弱な自身を守りたい本能。
いじめる側は家庭という密室でいじめられる側と同じような目に遭ったんじゃないかな?

あるかもしれない不安から逃れるためにいじめてるんだよ、こいつらは。

犯罪者と同じ弱い奴!!!

いじめは被害を受けた存在にとってどうしても感情的にならざるを得ない問題なので、永井さんの論旨も中途半端で、
Commentも感情論で埋まっており、いじめの構造を解明する所まで到達していません。

私の見るところでは、いじめは外部から作業を強制され、逃げ場のない組織の内部で起きるものです。
学校、軍隊、警察、家内の嫁姑などが典型的な例です。

外部から強制された作業に駆られている集団にとって、自分で状況を認識し、手法を考え、揺らぎの中で最適なものを見つける自発的実行と違って、手段・目的を他者に固定された作業を効率的に進め続けるためには、あなたの言う組織に属していながらirregularな行動を取ろうとする両義的存在を排除することでentropy増大を防ぐしかありません。

これがいじめが起きる基本的な要因ではないですか?

教師がいじめを見て見ぬふりをしたり、むしろそれに荷担したりするのは、低entropy維持が彼らの最優先目標だからです。

カタルシスとしてのいじめが、エントロピー縮減効果をもたらすのは、いじめる側にとってであって、もしも教師がいじめる側に加担していないとするならば、教師にとっては、いじめが起きることは、エントロピーの縮減にはなりません。むしろ、監督責任がある者にとっては、エントロピーの増大でしょう。教師がいじめに気が付かないのは、いじめの被害者が、いじめの事実を教師に告げると、さらにそれを口実にしていじめられるということを怖れて、自粛してしまうからでしょう。

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