なぜ日本人は幼児的なのか
しばしば、日本の文化や日本人の精神構造は特殊だと言われる。しかしそれは、日本の文化や日本人の精神が特殊な発達を遂げたからではない。たんに発達が未熟であったからにすぎない。標準的な発展を遂げた他の文化圏の人々と比べると、日本人は、外観だけでなく性格が幼児的に見える。そして、この幼児性ゆえに、日本文化は、特殊であるように見えるだけなのだ。
1. 日本文化のネオテニー的性格
ウーパールーパーのように、幼生の特徴を残したまま成体になる個体を、生物学ではネオテニーと呼んでいる。日本という国は、経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる[n]。
[n] 生物学者や人類学者によれば、全人類の中ではモンゴロイドが、全類人猿の中ではヒトが、最もネオテニーの特徴を持つとのことである。だから、ネオテニーとして特徴づけることは、必ずしも貶めることにはならない。
これまで、日本文化の特殊性について様々な議論がなされてきたが、以下、代表的な古典的見解を取り上げて、それらがすべて、ネオテニーの属性(幼児性)であることを確認しよう。
中根千枝は、『タテ社会の人間関係』の中で、日本の社会をタテ社会として特徴付け、欧米型のヨコ社会と対比した。「あなたの職業は?」と聞かれて、例えば「システム・エンジニアです」と答える社会はヨコ社会で、「松下の社員です」と答える社会はタテ社会である。日本では、スペシャリストが複数の会社を相手に才能を売り歩くという雇用形態よりも、一つの会社に定年まで所属して、様々なポジションをこなすという雇用形態のほうが主流である。少なくともこの本が出版された1977年ごろまでは、日本は完全なタテ社会だった。
中根が注意を促しているように、タテ社会にヨコの関係がないわけではない。「場」による集団内部に限定されたヨコの関係ならある。だから、中根が言う「タテ社会」とは、「ウチ」と「ソト」の区別にこだわる「ウチ社会」である。「ウチ社会」は、「ウチ」という言葉が示しているように、家をモデルにした社会である。
どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。
ルース・ベネディクトは、『菊と刀(The Chrysanthemum And the Sword)』で、恩を着せられることによる義理が、日本人の意識を強く制約していることを指摘した。こうした互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。個体発生と系統発生とを対応させるならば、互酬性社会は、母子の間の、水平的な交換関係を機軸とする鏡像段階に相当する。この段階は、父という超越的第三者(コミュニケーション・メディア)によって、垂直的に交換が媒介されていないという意味で、プリミティブなのである。
『菊と刀』は、日本の文化と欧米の文化の違いを「恥の文化」と「罪の文化」の違いとして説明したことでも有名である。日本の経営者が「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」と言って辞職するのは、日本の文化が恥の文化だからである。罪の文化の視点からすれば、罪がないのなら辞職する必要はないということになるが、恥の文化の視点からすれば、世間を騒がせて恥ずかしいということが、引っ込む口実として認められる。
恥とは、他者という鏡に映し出された醜い自我に対する不安の感情である。その際、醜いかどうかに普遍的な基準はない。周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。
これに対して、罪は、超越的で普遍的な規範に違反したときの意識である。罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。日本人には、唯一神から与えられた、超越的で普遍的な規範はない。だから、しばしば主義主張に節操がない。かつて鬼畜米英を叫んでいた日本人が、一転して親米的になったのを見て、マッカーサーは、日本人の精神年齢が12歳だと言ったが、このように、罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。
2.「甘え」の構造
日本文化の幼児性を、もっと直截に「甘え」という言葉で指摘したのが、土居健郎の『「甘え」の構造』である。もちろん、甘えるという現象は、日本人だけに見られるわけではない。どこの国でも、幼児は母親に甘えるものだ。だが、日本では、幼児がいつまでも母親に甘え続けることができるのに対して、多くの国では、子供たちは、父親によって、精神的な乳離れを強要される。では、なぜ日本人は、母親に甘え続けることが許されるのだろうか。なぜ、日本の文化は幼児的な段階に留まっているのか。
それは、日本では、母権社会から父権社会への転換である男性革命が、きわめて不十分であったからである。男性革命は、ギリシャ哲学やユダヤ教や仏教や儒教など、男性原理に基づく宗教や哲学が誕生した紀元前5世紀頃の「枢軸時代」がピークなのだが、その頃の日本はまだ縄文時代で、当時の日本人はプリミティブな地母神を崇拝していた。
6世紀になると、日本は、男性宗教の一つである仏教を輸入するが、当時の日本の為政者たちは、仏教を、自分が解脱するための宗教としてではなく、現世に対する執着を捨てない怨霊を成仏させる技術として導入した。無念の死を遂げた敗者が、怨霊となってたたりをなすという怨霊信仰は、日本だけでなく、世界中にある。しかし、怨霊を神として崇める伝統があるのは、少なくとも先進国では、日本だけである。世界の仏教圏においても、「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。
この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる。土居は、日本人が「甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいる」と言うが、敗者となっても、怨霊としてたたりをなせば、神あるいは仏として崇めてもらえると期待することも、甘えの一つである。旧約聖書では、イスラエルの民が、出エジプトの後、カナンへ向かう途中、神が邪魔になる住民を大量に殺戮しているが、殺された人々が怨霊となって報復したり、イスラエルの民が鎮魂のために怨霊を神として崇拝したりするということはない。イスラエルの民にとって、ヤハウェは唯一絶対の神であり、他の神を崇拝することは許されない。
ユダヤ-キリスト教が父性の宗教だとするならば、日本の伝統宗教は母性の宗教である。母親が相手なら、幼児は、欲求不満のとき、泣きじゃくって駄々をこねれば、あやされて慰めてもらえる。だから、日本では、怨霊が「自分を神として崇めてくれ」と駄々をこねるのである。だが、父親に対しては、こうした甘えは許されない。父なる神は、絶対的な超越神であり、人間同士の恩讐の彼方にある。
世界で一番男性的な宗教は、イスラム教にちがいない。最近電車の中で、私は、イスラム文化圏から来た夫婦を目にした。妻は手ぶらで座席に座っているのに、夫は片手で重い荷物を持ちながら、もう片方の手で幼児を抱き、揺れる車内でバランスを取りながら立っているのを見て、「イスラムの男はたくましいな」と思ったものである。他方で、イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話もよく聞く。
外国から来た女たちは、日本の男を評して、「頼りない」「子供っぽい」「男らしくない」と言う。「男らしくない」あるいは同じことだが「父親らしくない」という評に対しては、「そんなことはない。戦前の日本の怖い父親を見よ。妻に対して威張っている亭主関白には、父親の威厳があるではないか」と反論したくなる人もいるかもしれない。確かに「メシ!」「フロ!」と妻に命令する亭主関白は、一見すると偉そうである。しかし、妻から見れば、亭主関白などは、自分一人では身の周りの世話が何もできない「大きな赤ちゃん」に過ぎない。
欧米では、夫が妻のために食事を運び、部屋に入るときには、自ら扉を開けて、妻を先に入れる。こうした「婦人への奉仕」という欧米に伝統的な騎士道精神を見て、「欧米では、女性は尊重されている」と思うかもしれない。実はこれは、「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という男尊女卑の態度の表れである。日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである。
3. サムライは男らしいか
読者の中には、
日本の男には、欧米の男にはない男らしさがある。例えば、太平洋戦争の時、特攻隊に自ら志願するなど、死を恐れずに戦ったのは、日本兵の方であって、英米の兵は、“女々しい”ことに安易に降伏した。
と反論する向きもいるだろう。戦前の軍人や江戸時代の武士にとって、「死は鴻毛よりも軽し」だった。この「勇ましさ」は、日本の文化が母性的ではなくて、父性的であることを示しているのだろうか。
戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」とあるように、戦時中の日本兵は、捕虜になるよりも自決の道を選んだ。中には、戦闘中に意識を失って、不本意にも捕虜となった日本兵もいたが、彼らは、その恥ずべき事実が母国に知られないことを切望した。これに対して、捕虜となったアメリカの兵隊は、自分が捕虜となったことを祖国の家族に知らせて欲しいと願い出て、日本人を驚かせた。アメリカ兵も、命をかけて祖国を守ろうとした点では、日本兵と変わらなかったが、彼らには、家族を守る父親としての責任もあったので、無駄な死を避けて捕虜となることは、少しも恥ずかしいことではなかった。何よりも、彼らは、死が美しいとは思っていなかった。
日本には、長い間咲き続ける梅の花よりも、すぐに散ってしまう桜の花を愛する独特の美学がある。花となって散っていった特攻隊員や潔く腹を切った武士たちは、そうした死の美学に陶酔していた。「花は桜木、人は武士」である。特攻は、今では日本の専売特許ではなくなったが、自爆テロを行うイスラム原理主義者たちは、父なる神アッラーのために死ぬのであって、日本人のように、死そのものが美しいとは考えない。精神分析学では、死への欲動をタナトゥスと名付けているが、日本には、なぜタナトゥスの美学があるのか。
人は、死ねば土に帰る。死ぬということは、母なる大地の懐に戻るということを意味している。日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。勇ましい武士も、死ぬ直前に口にした言葉が「おっか(お母さまのこと)」だったりする。自ら死を選んだサムライは、その深層心理において、胎内回帰願望によって動機付けられていた。このように、一見すると勇ましそうな日本人の死の美学も、実はきわめて幼児的な欲動に基づいているのである。
4. 日本人の縮み志向
韓国の比較文化論者、李御寧は、『「縮み」志向の日本人』という本の中で、日本文化には縮み志向があることを指摘した。たしかに、縄文時代の屈葬から現代のカプセルホテルに至るまで、日本人が小さな箱の中に縮んで入りたがることを示す例は枚挙に暇がない。これは、日本では土地が不足しているからだと言う人もいるが、日本以上に人口密度が高いところに、必ず縮み志向の文化があるわけではない。日本人が縮み志向であるということは、日本人が大人になることを拒絶しているということである。そして、日本人が「小さな箱」の中に入りたがるのは、胎内回帰願望の現れである。
日本人は、縮むことだけでなく、縮めることも好きである。1980年代に、日本人は、欧米人が発明した製品の精巧な小型版を作り、世界の市場を席巻した。李御寧によると、初めて世界的にヒットした日本発の輸出品は、折りたたみ式の扇子だったそうだ。だから、先進国の製品を見て、それを縮めて模倣し、輸出するという伝統は、平安時代からあったことになる。このように、日本人は、先進国が作った物のミニチュアを作ることに熱心なのだが、これもまた、きわめて幼児的な現象である。幼児は、大人がしていることを見ては、「 ごっこ」という遊び心で、そのミニチュアを作りたがるからだ。
5. 日本人が幼児的であり続ける理由
日本文化が幼児的であるのは、日本では男性革命が不十分だったからだと私は説明した。ではなぜ日本では、男性革命が不完全燃焼を起こしたのか。なぜ、日本人は超越的な唯一神を信仰しないのか。なぜ、日本には、強いリーダーや強い父親が現れないのか。この問いに対して、二つの説明を試みたい。
一つは、自然環境説である。一般に、厳しい母親のもとで育つと、子供は早く自立するが、母親が甘やかしていると、子供はなかなか乳離れしない。同様に、イスラム文化圏のように、母なる大地が砂漠で、自然が苛酷なところでは、人々は早い時期に母なるものと袂を分かつ傾向にある。日本のように、母なる自然が人間に優しくしてくれる地域では、地母神崇拝からなかなか脱却できない。
キリスト教も、もともとイスラム教と同様に、砂漠の宗教であり、純粋な男性宗教だったのだが、豊かな森に恵まれたヨーロッパでは、女性宗教と妥協した。インドネシアも、イスラム教を受け入れたが、自然に恵まれていた地域なので、インドネシア人の信仰は、ちょうど日本人の仏教の信仰と同様に、表面的なレベルに留まっており、インドネシア人の意識の深層においては、相変わらず、原始的で 多神教的な信仰が残存している。
言うまでもなく、豊かな自然に恵まれた地域は、日本だけではない。それゆえ、自然環境説は、日本文化の幼児性を説明するには、不十分である。そこで、もう一つ、隷属経験説を提示しよう。
幼児的な民族は、嫉妬深くて、リーダーシップを発揮する強い権力者を指導者として仰ぎたがらない。しかしそれでも、戦争ともなれば、強いリーダーがどうしても必要になる。戦争に負けて、民族全体が異民族の奴隷となる悲惨な体験をした民族は、幼児的な嫉妬心を捨てて、強いリーダーを望むようになる。イスラエルの民が、世界初の男性宗教であるユダヤ教を信じたのは、彼らがエジプトの圧政やバビロン捕囚といった民族隷従の苦しみを味わったからである。
では、日本民族はどうだろうか。日本列島は、まるで羊水に守られている胎児のように、周囲を海で囲まれており、地理的に、異民族の侵入を受けにくい位置にある。日本民族が、異民族に支配されそうになった時は、白村江の戦いに敗れた後、蒙古襲来時、鎖国時代末期、太平洋戦争敗戦後と、過去に4回しかない。そして、いずれの時も、運命は日本人にやさしくしてくれた。
663年に、白村江で唐・新羅の連合軍に敗れた日本は、唐・新羅の連合軍に攻められる危機に直面した。天智天皇(中大兄皇子)は、侵略に備えて、近江大津京に遷都し、西日本各地に城を築いた。だがこの時、日本にとって幸いなことに、朝鮮半島の支配をめぐって唐と新羅が不和となり、日本は侵略される危機を免れた。
1274年と1281年の2回にわたって、日本は、元から攻撃を受けた。モンゴル人は、騎馬戦を得意としたが、海戦には弱かった。1281年の本格的な侵攻の時、よく知られているように、「神風」と日本人が呼ぶことになる大暴風雨により、フビライハンの野望は鷹島沖の藻屑となって消えた。
江戸時代の末期、日本は、他のアジア諸国と同様に、欧米列強の植民地となる危機に晒された。だが、イギリスやフランスは、地理的に極めて遠い日本を植民地化することに熱心ではなく、日本との通商に熱心だった、“隣国”アメリカは、日米修好通商条約締結に成功したものの、その3年後に起きた南北戦争で日本どころではなくなり、ロシアも、日本を植民地化できるほど、シベリア開拓を進めていなかった。こうした幸運に恵まれて、日本は独立を保つことができた。
第二次世界大戦に敗れた時、日本は、ドイツとは異なって、自民族による政府を存続させることができた。戦争中には、神風は吹かなかったが、戦後、冷戦という、日本にとってはありがたい神風が吹いてくれた。おかげで、アメリカは、日本を反共の砦にするべく、惜しみなく日本に物資を援助してくれた。日本にとって、アメリカの占領軍は、搾取する侵略者ではなくて、慈悲深い母親のような存在だったわけで、今日に至るまで、日本はアメリカから乳離れができないでいる。
運命の女神という言葉があるように、運命は女性として表象される。父性文化が成熟している国の民族は、運命という女を力で征服し、自分の支配下に置こうとする。ところが、日本人は、運命という偉大な母に、幼児のようにおすがりして、身を委ねようとする。これまでそれでうまく行ったのだから、これからも運命という母に甘え続けようというわけだ。「北朝鮮が攻めてくるかもしれない」と言われても、「いざとなれば、アメリカ軍が何とかしてくれるだろう」と、相変わらず神風が吹くことを期待して、のほほんとしているのは、このためである。
幼児的であることは、必ずしも悪いことばかりではない。世界的にヒットした小型製品や、世界的に高く評価されているアニメや漫画を作り出すことができるのは、日本人の幼児性のおかげである。しかし、政治や外交や安全保障の分野では、幼児的であることは、致命的な短所である。これまで、日本は、経済では一流だが、政治では二流だといわれてきた。政治や外交や安全保障の分野で一流でありたいと願うのであれば、日本人はもっと大人にならなければならない。
| 書名 | タテ社会の人間関係―単一社会の理論 |
|---|---|
| 媒体 | 新書 |
| 著者 | 中根 千枝 |
| 出版社と出版時期 | 講談社, 1977/02 |
日本の社会の特殊性を文化人類学的に考察した一般向けのわかりやすい本。著者によれば、「場」と呼ばれるゲマインシャフトの中でのタテの関係をゲゼルシャフトでのヨコの関係よりも重視する日本の社会は、欧米のみならず、アジアと比べても特異である。日本の会社の中でも、グローバルな競争に晒されている会社はもはやタテ社会ではないが、いわゆる保護産業や官庁では、相変わらず先輩後輩の区別にこだわるタテ社会が健在である。
| 書名 | The Chrysanthemum And the Sword |
|---|---|
| 媒体 | ペーパーバック |
| 著者 | Ruth Benedict |
| 出版社と出版時期 | Mariner Books, 2005/10/19 |
戦後盛んになる日本文化論の先駆的古典。ルース・ベネディクトは、太平洋戦争中、敵の行動パターンを調べる任務を受けて日本研究を行ったアメリカの文化人類学者。日本人は、恩を着せられると、それを返すことに異常なまでに義理を感じるが、ベネディクトは、日本でフィールドワークをしたわけでもないのに、こうした日本社会の互酬性原理をよく理解している。社会学的には、日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」という対比が有名である。
| 書名 | 「甘え」の構造 [新装版] |
|---|---|
| 媒体 | 単行本 |
| 著者 | 土居 健郎 |
| 出版社と出版時期 | 弘文堂, 2001/04/18 |
日本人の心性の特異性を「甘え」という言葉で特徴付けた日本文化論。著者は、「甘え」という言葉は日本語にしかないというが、李御寧も指摘するように、韓国にもある。日本に特徴的なことは、「甘え」という言葉があることではなく、甘えが社会の中で極めて寛容に受け入れられていることではないだろうか。日本では、社会の上に立つものは、周囲に対して幼児的な依存性を持つということは、日本社会の無責任性を示すものとして、よく指摘されるが、そこから出てくる、日本で発達した敬語が、幼児に話しかける言葉とよく似ているという議論は、意外だったし面白いと思った。





先生は幼児的であることは政治や安全保証の面では致命的だと仰っていて、私も全く同感なのですけれど、そのためには日本人も父性原理を獲得しなければいけない、と言っているように思えるのですがどうでしょうか?もしそうだとしたら、日本人が父性原理を獲得して政治や安全保証の議論に強くなるためにはどうすればよい、とお考えでしょうか?
それともうひとつ、先生は仏教を「男性宗教の一つ」と述べていますが、私は仏教は絶対的に人を裁くのではなく慈悲と寛容で包み込むような宗教で、母性的だと感じているのですが、この点はどうでしょうか?
人類の歴史的発展段階を個人の精神発展段階に喩えると、母権社会は口唇期と肛門期に、父権社会は男根期と潜伏期にあたります。父権社会は父なる神の死とともに終わり(まだ神が死んでいない文化はたくさんありますが)、現在は、男女が対等に付き合う思春期といったところでしょうか。
私は、日本がプレモダンな父権社会になるべきだとは考えていませんし、またそのようなことは書いていません。「日本人はもっと大人にならなければならない」と書きました。アメリカへの甘えを捨て、もっと主体的に政治や外交や安全保障を行うべきだということです。
仏教に関しては、原始仏教と日本の仏教を区別して考えて下さい。仏陀は、一方で禁欲的で、女性原理である物質的なものを捨て、他方で男性原理である真理を悟ることを説きました。だから、男性宗教なのです。妻を娶り、肉を食べる日本の僧侶は、女性原理をかなり取り込んでいます。日本人は「仏教は絶対的に人を裁くのではなく慈悲と寛容で包み込むような宗教」だと考えていますが、私が問題にしているのは、仏教を母性的な宗教へと変質させた日本の文化のあり方なのです。
我々は、確かに甘えている。幼児的だと思います。イスラムのこともなるほどと思いました。ただ、ちょっと引っかかることがあります。確かに、縮み志向の典型である盆栽を単なるミニチュアあるいはごっこ遊びとしてみることが出来るのはわかります。しかし、通常盆栽をやっている人は、そうは思っていません。ミニチュアと盆栽は質的に違うと思っています。彼らは、「密度」を問題にしているはずです。つまり、小さな木と大きな木がある。しかし、盆栽は大きな密度をもつ小さな木です。いかなる大きな木であっても盆栽よりは小さいのです。密度が。盆栽は、水中花のように水を足せば、どんな大木より大木になるほどの密度をそなえているのです。
同じことは、特攻隊にもいえます。神風特攻隊がお母さんといったか天皇陛下といったか知りませんが、彼らも密度を問題にしていると思います。つまり、一人で敵一人を殺す。十万人で十万人を殺すのではなく、体当たりをして、一人で千人を殺すということです。一人の死が殺した兵士の数と同等の密度を持つわけです。残酷な等式です。効率といってもいい。我々は、胎内回帰ではなく、この割り算のもたらす魅惑あるいは快感に忠実なのではないでしょうか?
事実、割り算は全く新しいフロンテアを我々に見せてくれます。それは、盆栽と並び称される俳句についてもいえる気がします。少数の単語に宇宙を盛り込むためには、密度を無限にしなくてはなりません。最良の俳句は女性的な短歌と異なり、男性的な微分方程式に似ていると思います。変数の取り方や単純化に天才を必要とします。俳句も盆栽も特攻も日本の男の発明でしょう。永井さんのいう胎内回帰を否定する気はありません。ただ、密度の魅惑はまったく新しいフロンティアでもあるということです。胎内回帰には、外に繋がる穴が空いている場合もあるといいたいのです。
胎内回帰願望は、本文に書いたとおり、「深層心理」であって、表層の意識とは異なります。ミニチュア作りに関しても、本人に幼児的な「ごっこ」意識があるとは、考えていません。表層の意識において、効率を求めている場合であっても、深層はまた別ということがあるのです。
盆栽作りの価値が密度にあるというのは、いかがなものでしょうか。盆栽の木は天然の木よりも、物理学的に特に密度が高いわけではありません。また、盆栽を作っている人は、盆栽の木が大きくなることを望んでいるわけではなく、逆の動機を持っています。
太平洋戦争中の特攻は、そのほとんどが敵艦隊に命中しなかったために、効率はよくありませんでした。むしろ、アメリカ軍に精神的ショックを与えた点が大きかったと言われています。
盆栽の密度ということによって、言いたかったことは、盆栽の木としての密度が高いといいたいのではありません。盆栽は苗木では全くありません。盆栽を褒めるときに、大木の風格があるといったりします。盆栽を苗木から作る場合、まずされなりの幹の太さを追求します。太く大きくなって欲しいわけです。成長し、成熟して欲しいのです。ある程度大きくなると、太さは主要な関心事ではなくなります。むしろ、どの枝を残すか、どの枝をどう撓めるかが問題になります。なるべく、大木にみえるように枝を選択し、後は捨てます。小さく、かわいらしくするのではありません。さらに、葉っぱをこの盆栽に相応しい小さいものに仕立てるべく、葉の刈り込みをします。これも、大きく立派にみせるためです。そうして、太い幹、大木風の枝ぶり、それに見合う小さな葉により、盆栽は小さな大木になるのです。大きな木の風格を小さな空間に実現する。このことが盆栽の密度によっていいたかったことです。何となく、誤解されている気がしてちょっとフォローしました。
別な道から同じ山に登ってみます。例えば、桜が好きと同じ理由で、我々は花火も好きです。花火は、空全面をきわめて爆発的に美しく占領します。最小時間による最大の空間所有です。この、最小ものによる最大の成果が好きなのです。甘えるというのも、最小の努力による効率的な愛情獲得であるがゆえに選択されたものだと思います。我々日本の男にとって、胎内回帰は手段であって目的ではないのでは?
「大きな木の風格を小さな空間に実現する」ということは、要するに、大きな木のミニチュアを作ろうとしているということですね。ただ、盆栽の製作者は、単純に模倣しているわけではなくて、自然の木以上に屈折をつけようとします。これは、体を折り曲げて胎内に戻ろうとする欲望の現れです。盆栽が代表象しようとしているのは、幼児そのものではなくて、幼児の姿に戻りたがっている大人なのです。この点を誤解しているような気がします。
花火の起源は、宋代の中国や14世紀後半のフィレンツェにあるそうです。日本に伝わったのは江戸時代ですから、花火は日本特有の文化ではありません。また、日本人が、他の国民以上に花火が好きというわけでもありません。だから、花火の例は使えません。
なお、甘えについてですが、甘えの目的が愛情獲得であるという指摘も、私の議論に対する反論とはなっていません。
表層における目標とか目的とか見かけの成熟あるいは男らしさではなく、深層における欲動を永井さんが問題にしておられるのだと良く分かりました。深層における欲動が表層では、ほとんどの場合、逆に意識されたり、ずらされているということですね。盆栽をみながら、ほっとする瞬間なんかに深層の欲動が顔を覗かせている気がします。胎内回帰を表層の意図あるいは目的であるように誤解していたのだとわかりました。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、鋭いところを突いているところもあるとは思いますが、いろいろな理由から批判されていて、最近の欧米の人類学ではあまり素晴らしいものとはみなされていないようです。彼女が批判されている理由の一つは、あまりにも reductionist 的(十把一絡げな、とでも言うのでしょうか)というものです。(ご参考まで)
「標準的な発展を遂げた他の文化圏」については、どういう発展が標準的であるかという基準がはっきりと示されていないように思います。日本が「標準的な発展」を遂げていないならば、「特殊な発展」をしたと言えませんか?私自身は、文化の変化に傾向があることは否定しませんが、何が標準的かは個人の持っている物差しによると思っています。故に、国際的な権力が標準の目安で無い限り、日本を含む全ての地域の文化が「特殊」な面を持っていて、どこが標準とは言えないと思っています。
「罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。」理論はそうなのですが、実際はそう思えないことが多々あります(少なくともカナダでは)。例えば、日本で頻繁に見られる酔っ払いはこっちではあまり見られません。でも、酔っ払うこと自体が罪だと思っているわけではないようです。なぜなら、人の家で行うパーティーでべろんべろんに酔っ払ったり、酔って喧嘩をしたりする人はかなりいるからです。しかし、べろんべろんに酔っ払って道を歩く人は日本と比べたら確かに少ないと言えます。なぜでしょうか?知り合いの人に「なぜ外で酔っ払わないか?」と質問したら、"It is socially stigmatized." という返事が返ってきました。外で酔っ払うことはその人個人にとって「罪」なのではなく、社会が教えた「罪」ということです。それは「罪」というよりも、「恥」に近い気がします。私の配偶者(カナダ人、哲学専攻)に言わせると、「個人的な罪の意識によって行動をしている、と信じている人は多いけれども、罪と恥の境界線と言うのははっきりしているとは思えない。なぜなら、罪の意識は『社会の恥』から作り出されている場合も多いから」と言っていました。
結局のところ、どこの文化にも多かれ少なかれ「恥」と「罪」は存在するのだと思います。日本人が「恥」と言っている事を欧米人は「罪」と言っているだけということもあるのだと思います。ただ、日本人は「恥」を重んじる傾向があるというのは同感です。日本は個人よりも集団を重んじる社会であり、また日本人は単一民族だと信じている傾向があります。そういった中で、何が普通で何が異常か、また、何が恥で何がそうでないか、という範囲が狭く、そこにこだわってしまうのは理解できないことではありません(決して賛成しているわけではありません)。カナダやアメリカにはいろいろな文化から来た人達が住んでいます。島国イギリスでも、カナダやアメリカほどでないにしても、民族の交わりや対立は日本のそれをはるかに超えています。また、個人主義の発達によって人と人のつながりが希薄です。そういったこともあって、何が普通で何が普通でない、何が恥で何が恥でない、という範囲が広いのだと思います。
日本人が幼児的に見える理由がどこから来るのかは、私自身じっくり考えてみないと何とも言えませんが、「男性革命が不十分だったから」という説明には何かしっくりしないものを感じます。なぜなら、他にも男性革命が起こっていない文化もたくさんあるはずで、その文化の人達が幼児的かどうかは私にはわからないからです。なぜ欧米のようにならなかったか、という質問の答えに対してならそれでもいいかもしれません。
『なぜ日本人は幼児的なのか』では、reductionist 的な表現がとても気になりました。「欧米では、夫が妻のために食事を運び、部屋に入るときには、自ら扉を開けて、妻を先に入れる」そういう傾向はかなり減ってきているようです。おじいさんがドアを開けてあげたりするのは時々見ますが、若者はあんまり気にしていないようです。もともと男尊女卑の表れだったとしても、今現在それをする人は習慣でやっているだけのような気がします。
「そんなことはない。深層心理には男尊女卑があるのだ」と言われるかもしれません。その可能性はもちろんあるし、そう思っている人がいるだろうということも否定はしません。ただ、こちらの(カナダの)女性はかなり大きくて強い(身体的、性格的)人も多く、そういう人達を相手にして「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という気持ちを持ち続けるのは簡単なことではないように思われますが、どうでしょうか。「(日本の)男は女よりも強くて賢くてえらいのだ」と再三言われ続けても、そういう人をあまり見ないためにそう思えないというのと似ている気がします。
「日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである」日本全国の全男性にとって妻は母親の代替物でしょうか?欧米の数十カ国の全男性にとって妻はペットでしょうか?違うと思います。永井さんがそういう意味で仰っているのではないということも想像がつきます。ただ、この表現は誤解を招くと思います。
罪の文化と恥の文化の本質的違いは、規範が絶対的か相対的か、普遍的なのかそれとも周り次第なのかというところにあります。たぶん今でも、否定疑問文に対する答え方は、日本とカナダでは異なると思います。日本では、自分と相手の意見が一致しているか否かで「はい/いいえ」が決まり、英語圏では、内容の是非で「Yes/No」が決まります。
私が言っている標準的な発展とは、最も権力と資本を持っている世界システムの中核(ウォーラーステイン)の歴史のことです。人類学者は周縁の文化を好んで研究するので、文化の多様性に目を奪われます。もし中核が標準でないとしたならば、なぜ半周縁の人々が中核を模倣しようとするのかが説明できません。だから、人類学者以外の学者は、周縁より中核を研究するわけです。
男性革命が不十分だった周縁地域として、日本以外にヒマラヤ山脈周辺を挙げることができます。日本と同様、天然の要塞に守られたこの地域では、日本とよく似た文化が残存しているそうです。また日本以上に女権社会なのだそうです。
ヨーロッパにも、かつてはディオニソス(バックス)的な陶酔を肯定する文化がありましたが、キリスト教の普及により、はめをはずすこと(エロティシズム)の許容範囲は、家の中のような私的な領域へと押し込められました。
人類社会は、現在、父権社会から、ジェンダーフリー社会へと移行しつつあり、またそうなるべきだと私はと思います。男たちが妻をペット扱いしなくなったことは、それを反映しています。
すべてに文章が日本人が幼児的であると言う前提においての文章であり、日本人と外国人の対比が際立っていない、「なぜ日本人は幼児的なのか?」ではなく、「日本人が幼児的であるという仮説に基づいたあれこれ」である。 ~「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる~ のくだりは特にそれが顕著である、「甘え」で説明したいが為の強引さが浮き出ている。「mother fucker」と言ってアメリカ人が怒るのは「甘え」で説明できる・・・アラーの為に死ぬということはイスラム教信者の「幼児性」をあらわしている・・・このような強引な文章を作ることは誰にでも出来る。私ならそれに続く文章も作って見せる。文章中の言葉は陰にも陽にも使うことが出来るのである。「甘え」「幼児的」はこの程度の意味しか持たない。まるで当らない占い師の「曖昧な予言」と同義、つまり「何事もその言葉の範疇の内」という事である。この場合「何事」には日本人の行動、性格などが入る。 題材は良いのでもっと掘り下げた良い文章が出来るはず間違っても ~日本人が縮み志向であるということは、日本人が大人になることを拒絶しているということである~ というような投げやりな文章を書くべきではない。
「なぜ日本人は幼児的なのか」の1から4までは「日本人が幼児的であることの説明」で、5は「幼児的である理由の説明」です。量的には、前者の方が後者の倍以上もあり、「日本人が幼児的であることの説明」を省略して、それを仮説として前提した上で「幼児的である理由の説明」だけをしているという批判は、当たっていません。
私がここで「幼児的」と言っている発達段階は、精神分析学の用語を使うならば、エディプス・コンプレックス以前の精神段階のことです。フロイトによれば、生後3-5年の男根期になると、男の子は、父親による去勢の脅威に晒され、母子密着からの自立を迫られます。日本の精神文化は、この段階の前で止まっているので、母子密着という甘えが許されるのです。
KSさんが、私の説に対する反証として挙げている例は、私の説の証拠として使うことができます。“mother fucker”という罵倒の言葉は、アメリカ人が母との近親相姦を非常に軽蔑している、つまり男根期以前の甘えを許容しないということを示しています。イスラム教信者が、父なる神に対して絶対的に服従するということも、男根期の特徴をよく表しています。
こうした説明は、「なぜ日本人は幼児的なのか」以前の論文で何回かしているので、わざわざ書きませんでした。KSさんには、「なぜ日本人は幼児的なのか」だけ読んで論評する前に、まずは、「男社会はいかにして成立したのか」あたりを読んでもらいたいです。
僕は「そもそも日本人とは」という論を立てて多様性を切り捨てる思考方法そのものに疑問を感じますが、仮にそういうものがあることを認めるにせよ、古代から現代までの日本をすべて「幼児性」で説明しようとすることには、論理的な矛盾があると思います。一体日本の戦国時代や明治維新をどのように解釈するのでしょうか?
一般的に言って、日本人論は、日本の文化に見られる傾向を論じているのであって、日本人全体に当てはまる法則(そのようなものはない)を論じているわけではありません。
「そもそも日本人とはという論を立てて多様性を切り捨てる思考方法そのものに疑問を感じます」とありますが、民族文化間の差異を否定し、人類一般についてしか論じないならば、それは「多様性を切り捨てる思考方法」ということにならないでしょうか。具体的普遍の論理は、個と種の間であれ、種と類の間であれ、フラクタルに成り立つものだと考えます。
私は、日本の歴史が幼児性ですべて説明できるとは書いていません。私が歴史の解釈で最も重視しているのは、環境(特に気温)と経済との関係です。戦国時代から明治維新にかけての権力の集権化は、近代小氷期によって惹き起こされた世界的現象であり、日本にのみ特殊ではない以上、日本人論の対象ではありません。
ご指摘の点は御尤も思いますが、日本語の特質が根底にあるかのように思えるのですが。また古来より知識階級、宮中人は歌により、自分の考えなどを表す嗜好に重きを置いたのではないでしょうか?論理の展開ならば、漢文の方がより適切ではなかったのかと思える一方で、候文はその中間にあると拝察しますが。いずれも知性が翳ると、これらの特性は幼児性を容易に誘発するのではないでしょうか?
日本語の特徴として、主語を表示する必要がないこと、述語動詞を最後に置くことを挙げることができます。これらは、責任主体を不明確にし、結論を先送りにする民族特性に合致しているかのようです。「無責任の体系」や「問題の先送り」を続けているならば、日本の政治家は大人とは言えないでしょう。
叙情的に流されやすい我等の特質は、日本語の特質にあるのかとも考えますが、昔の知識人は漢文を得意とし、込み入った論理の話は漢文でやり取りをした感もあります。現代、我々は口語文一種より持ち合わせていない、文化的にはかなり低落した状況ではなかろうか、さりとて漢文や候文を操れる教養もないジレンマにあると思料しております。
父権社会の次の世の中はどんなしゃかいですか
“もしも個体発生が系統発生を繰り返すならば、今後、女と男の関係は、母と子の非対称な関係ではなく、妻と夫の平等な関係を目指すと考えられます。”
http://www.nagaitosiya.com/a/bachofen.html#c682
別の表現を使うならば、父権社会のように権威が超越的で外的ではなく、内在化され、主体化されている個人主義の社会と言うことができます。
注意)「名前」には自分のペンネームを入れ、「永井俊哉」は避けてください。「自己紹介用URI」がない場合は省力してください。「投稿」は一回だけ押してください。
日本人は欧米人より初潮年齢が早く、
歯冠が大きいから幼児的ではありません。
日本女性の閉経年齢は欧米人と変わりません。
ネオテニーに人種差がない証拠です。
ネオテニー理論自体が穴だらけ、こじつけ、矛盾だらけだ。学業でもスポーツでも、日本人が早熟型で白人が大器晩成型という結果になっている。アメリカの子どもは平均的に8~9歳になって文章が読めるようになるというから、日本と比べるとずいぶん遅い文字の習得だ。実際に、9歳児の学力を調査すると日米で雲泥に差があるが、大学院までに追い上げられる。白人のほうが早熟なら、大学院のレベルは小学生よりずっと開いてなければならないはずだ。スポーツもしかりで、リトルリーグの世界大会では東アジア勢が圧倒的に強い。高校野球も日本が強いが、大学野球でアメリカに追いつかれプロ野球で逆転されるのがむかしからのパターンだ。結果的には、日本人のほうが早熟型になっている。松坂大輔は高卒で最多勝になっているが、MLBでは考えられないことだ。
ネオテニーとは、幼生形のまま成長することであって、成長しないことではありません。また、私は、冒頭で「日本という国は、経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる」と書きました。ですから、私がここでネオテニーとして指摘しているのは、身体的・知能的発達のことではなくて(この点で発達が止まれば経済大国になれない)、文化的・精神的発達のことです。もっと具体的に言うと、日本人には、去勢体験が希薄であるということです。
私は、
1.親に依存している、子供時代(思春期まで)
2.自立する、青年期
3.他者と社会を正しく理解する、成人期
と理解しています。
ただし、現実には、社会性の成長が思春期や青年期で終わってしまう人は多いです。
> 現在は、男女が対等に付き合う思春期といったところでしょうか。
対等な男女とは、自立の発想ですし、青年期の終わりの発想だと思います。さらに、父権社会というのも、自立の発想だと思います。(日本はともかく)世界社会は青年期まで社会性を身につけていると思います。
> 父権社会の次の世の中はどんなしゃかいですか
に関しては、私は、成人期に進むと考えています。
「貨幣を使う」というのは、自立を表していますが、貨幣には、他者の理解は存在していません。
> 互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。
に関しては、「もらった人に返す」という「閉じた互酬性」(この単語の専門用語が分からなくてすいません。こう呼ばせてください。)は1の子供時代の発想ですが、「赤の他人であっても、相手をしっかり理解して贈与する。贈与した量と、頂いた量のバランスはとれていても、もらった人に返すわけではない。」という「開いた互酬性」に進むと思います。
単に、「相手の理解を伴わずに、貨幣で交換する」というのは、2の青年期の発想だと思います。
いかがでしょうか?
貨幣はファルス的存在であり、家庭内ではこれを父で置き換えることができます。プリミティブな社会における互酬性は、純粋な貨幣を媒介としない物々交換であり、父を媒介としない母子の想像的交換に対応します。私の反復説については、このページも御覧ください。
http://www.nagaitosiya.com/b/libido_development.html
日本人は他の人がこうだからこうできなければだめなどと子供に教えたりしていますが、もしわが国にもイスラム教キリスト教仏教などの世界宗教が普及されたりしてたら子供の教育も変わっていましたか。
それに近所付き合いを大切にするのも日本人ですが。
他の文化圏ではそれほど近所付き合いは大切にしていまいのですか。
日本では、神と人との垂直的関係よりも、人と人との水平的関係が重視されるというよりも、神と人との関係までもが水平化されているというところが特徴的です。父権的文化が多神教的でないのは、神と人との関係を垂直的な、絶対的優劣の関係にするためと言ってよいでしょう。
本文では、「罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える」としていますが、これは、
恥の文化から見れば、罪の文化は幼児的に見える。
なぜなら、絶対的な善悪の存在など幼児しか信じないからである。
とも言い得てしまうのではないかと考えます。
罪の文化が幼児的に見えるか否かはさておき、上記言説の趣旨は、他文化から幼児的に見えることが、真にその文化が幼児的であることの証明にはならないのではないかということです。
「なぜ日本人は幼児的なのか」という本文のテーマに対し、「日本文化を幼児的と見る文化(本文の趣旨からは欧米文化と推察される)の視点からは幼児的に見えるからである」では説明にならないと考えます。
以下の分析も日本文化を幼児的と見る欧米文化の視点から検討しているように思えます。結局、本文は筆者が日本文化を幼児的と見る文化の視点に立脚していることを述べてるだけなのではないでしょうか。
それならば、本文のテーマは、「なぜ日本人は欧米文化から見ると幼児的に見えるのか」が正しいのではないでしょうか。
次に、「日本文化が幼児的であるのは、日本では男性革命が不十分だったからだ」とする本文の見解によれば、すべての文化について、男性革命が不十分な段階では幼児性があることになり、胎内回帰願望によって縮み志向があることになります。
とすれば、男性革命以前もしくは不十分な段階の文化は、すべて小さな箱の中に縮んで入りたがるとか、「…ごっこ」という遊び心でそのミニチュアを作りたがる傾向がなければならないことになってしまいます。
この点について根拠があるのでしょうか。
本テーマ全体について、何故か他のテーマのように分析が鋭くなく、証明も粗いように思えます。これは、読み手の側にも本テーマ特有のバイアスがかかってそのように感じる側面があるのでしょうが、筆者の側にも本テーマ特有のバイアスがあるのではないでしょうか。
本論で言っている「幼児」とは、前エディプス期の幼児のことです。
“絶対的な善悪の存在など幼児しか信じないからである。”
こう言う時の「幼児」とは、エディプス期(男根期)の幼児で、リビドーの発展史からすると、前エディプス期よりも後の段階です。エディプス期は、生後3-5年ですから、たしかに、慣用上「幼児」と言ってよいのですが、エディプス期から見ると、前エディプス期は、より幼児的に見えます。
“男性革命以前もしくは不十分な段階の文化は、すべて小さな箱の中に縮んで入りたがるとか、「…ごっこ」という遊び心でそのミニチュアを作りたがる傾向がなければならないことになってしまいます。”
例えば、エジプトでは、文明が成立する以前は、屈葬をしていました。母権宗教における偶像崇拝は、神のミニチュアを作ることに基づいていますが、これは父権宗教では禁止されています。世界中どこでも、かつては母権的文化があったという私の仮説は、仮説に過ぎませんが、『浦島伝説の謎を解く』は、この仮説の補強に役立っていると思いますので、興味があれば、お読みください。
http://www.nagaitosiya.com/b/urashima.html
集団主義は日本だけではありません。
伝統的に稲作をしているところは、土地当たりの扶養可能人口が高いので、集団主義になります。しかし、小麦を作っているところは、人口密度が低く、個人主義的になります。
>人類の歴史的発展段階を個人の精神発展段階に喩えると、母権社会は口唇期と肛門期に、父権社会は男根期と潜伏期にあたります。父権社会は父なる神の死とともに終わり(まだ神が死んでいない文化はたくさんありますが)、現在は、男女が対等に付き合う思春期といったところでしょうか。
この見通しは楽観に過ぎるように思います。人はその生育暦から宿命的に口唇期なり男根期なりにコンプレックスを持たざるを得ないのではないでしょうか?それでも何とか折り合いをつけて生きていくしかないのが現実ではないでしょうか。エディプスコンプレックスなりアジャセコンプレックスなりを抱くのは、程度の差こそあれ、人として免れない状況だと考える立場もありえましょう。
ジェンダーフリーというのは、キリスト教的父権社会が揺らいでいる過渡的な状況の中で出現したあだ花に過ぎないと見ることも可能でしょう。男女平等社会を推し進めてきた先進国では離婚の増大とか未婚化、晩婚化、少子化に苦しんでいるし、性の同一性・境界性が揺らぐという問題もあります。人口過剰な異民族の流入という問題もあるでしょう。情報化社会の要請という側面は否定できませんが、なんとか男女平等社会が安定したとしても、それはジェンダーフリーというより、男女の役割分担と社会機能の再編集という形に落ち着くでしょうから、結局は父権文化と母権文化が混在したような折衷文化という形が予想されます。むしろ、地球環境問題の方が深刻で、母権文化復活という流れになるんじゃないでしょうか。
フロイドやマルクスが考えたように、歴史は必ずしもキリスト教的な直線的進化の過程ではないと考えることもできます。そのような立場から見れば、人類史の中に現れた極めて父権的な一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)は、ユダヤ民族の危機的状況から端を発した病的な文化で、たとえば世界に多大な迷惑をかけた、かつてのナチスや共産主義のように強力な感染力をもって一時的に世界に拡大したと見ることも可能でしょう。特別なことがなければ、普通は母性の中にまどろんでいるのが人類の基本的姿だという視点もありうるでしょう。父権文化の人々から見ると母権文化の人々が幼児的に見えるというのは、相対的な問題に過ぎないんじゃないでしょうか、一種の文化的偏見に過ぎないと・・・。日本は父権文化に対抗するために、危機に際して戦前の天皇制みたいな擬似父権文化をつくらなければならなかっただけで、父権文化になる必然性を持ってないですね。もうチョッと大人になれというより、白人や中国人にどう対抗するかという問題だと思いますが。経済力だろうがなんだろうが、上手に対抗できればそれでいいわけでね。
また、原始仏教を父権的宗教と見るのは難しいと思いますよ。永井先生自身、むずかしいとおっしゃってますね。ガウタマは自発的虚勢によって母権を放棄し、同時に父権を拒絶したといってますね。それが後の仏教徒がブッダを神格化して父性宗教にしたのだと。ところが、後の仏教は必ずしも父性宗教じゃないですね。それは日本仏教だけじゃなくて、如来蔵思想などインド大乗からしてそうですね。そういえば、一見父権に見える阿弥陀仏も、住んでいるのは天でなくて、西方十万億土の彼方ですね。部派仏教だって母性を象徴する大地に根を張った菩提樹信仰もってますからね。初期の仏伝でもガウタマの悟りを証明して悪魔を追い払ったのは大地の神だとされてます。つまり父権も母権も混在しています。揺れ動いています。
法を信仰するから父権だという主張も、どこまで精密に論証できるかはなはだ疑問です。原始出家集団に限ってもガウタマは筏のたとえで究極的には法も捨て去るべきだといってますし、阿羅漢になれば戒律を守るという意識はなくなるそうですし。法自体、母なる大地でも、父なる天でもない、ニルヴァーナに到るためのものですしね。結局、ガウタマの時代に、太陽黒点のせいかどうかわかりませんが、一時的に母権社会が揺らいだくらいのことしか言えないのではないでしょうか。イスラム教徒をのぞけば、おそらくインドは今でも多神教的母権文化ですよ。
歴史的父権革命仮説は、マルクス主義史観と同様、一見いろんなことを説明でき、未来予測までできるように見えますが、実際の歴史はそうそう単純ではないと思います。それは、ジェンダーフリーの行く末を見れば、歴史が明らかにするでしょう・・・。
“経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる。”
「見た目(経済)は大人だが中身(文化・精神)は幼児」というなら、その意味はネオテニーとは反対ではありませんか?
ネオテニーで例えるなら「幼稚っぽく見えるが実は成熟している」つまり「文化的・精神的な面で幼児的な特性を保持しているが、すでに文化としては成熟している状態」といった方が適切な気がします。
揚げ足取りみたいな指摘になりますが。
また、
“日本の文化や日本人の精神が精神が特殊な発達を遂げたからではない”
とありますが、今日まで幼児性を保持しつづけた国家の例が日本のほかにないのであれば、十分「特殊な発達を遂げた」と言えるのではないでしょうか。特殊性を否定し、その幼児性を強調すればするほど、逆説的に特殊であると結論付けられているように感じました。
“neoteny-The persistence in the reproductively-mature adult of characters usually associated with the immature organism.”[Sea Urchin Glossary]
ネオテニーとは、生殖能力があるにもかかわらず、生殖能力がない子供のような要素を持っている幼態成熟のことです。日本人に生殖能力があるにもかかわらず、生殖能力がない子供のような要素を持っているなら、それをネオテニーと呼ぶことは、本来の意味から大きく逸脱しないはずです。
なお、私が特殊でないといったのは、かつて世界のどこにでもあったという意味で、今どこにでもあるという意味ではありません。
“日本の文化や日本人の精神が精神が特殊な発達を遂げたからではない”という一文は、確かにミスリーディングですが、私としては、幼態成熟が特殊でも、幼態自体は特殊ではなく、どの生物も一度はその段階に発展するという意味で書きました。
はじめまして、突然お邪魔致します。私も20年前に大学の比較文化論の授業で勧められた「菊と刀」「甘えの構造」「タテ社会の人間関係」を読んだのを思い出しました。私自身はキリスト教徒(カトリック)で、2006年4月までの12年間を主にドイツやイギリスで過ごし、4年前から中世ドイツ語をヘブライ文字で書いたイディッシュ語の学習と平行してユダヤ教についても学んでいますが、改めて本帰国し日本企業に就職したものの「あれっ?」と戸惑う事が多い毎日です。実際に2006年12月には、たった3ヶ月間働いた会社でクビになってしまいましたからね(その原因は、私の性格がガイジンだから!)。それ以後も日本の社会について色々と考え、東京在住のドイツ人の知り合いなどと一緒に日本の社会について話し合いをしています。その際に、日本で暮らす外国人の為のカウンセリングをされているMatthias Kaemper氏からお教えして頂いたアドバイスを英語でまとめてサイトにしてみましたので宜しければご覧下さい!(欧米人の友人の為に英語で書きましたので、日本語で書きます。)
①どんな事があっても、無条件に「済みません」と言いなさい。ドイツ人のようにシリアスになって論理的に言い訳してはいけません。日本人はそんな真面目な人が大嫌いです。日本人と仲良くなりたければ、バカな話や
テレビの話をしなさい!ドイツ人のように哲学的なシリアスな話題は日本ではタブーです。
②出来れば、大袈裟に泣きなさい。ホリエモンも泣けば、皆さんから攻撃されなかったのです。そして、日本人は、何事でも泣けば赦してくれます。ドイツ人のように失敗の責任を感じずに済みます。
一般論として、ドイツ人にとって泣けない時に日本人は生まれ付き、すぐに泣けるようにインプットされているのですから。。。でも無理に日本人の真似をしなくてもいいよ♪w
③日本では、自分の功績は皆さんのお陰になりますが、失敗は連帯責任となるので、別にその失敗を深刻に悩む必要はないですよ。
④日本では、会社は人間関係の重要な鍵であるから、その会社を辞めた人とはもう交流しなくなるのが当然なのです。だから、貴女が○立ソフトでお付き合いしていた伊藤氏からメールがもう既に届かない状態になっていても我慢しなさい!彼にとって貴女との関係よりも、○立ソフトの会社の人達とのつながりの方が大切なのですから。。。(涙)
※日本人男性を好きになるのは止めなさい!どうせ、、ガイジン女と日本人男性のカップルなんて珍しいんですから。。。日本人男性は感情的で頭が空っぽで、結婚しても妻は単なる癒しであって、お互いに意見を交換したり、共に精神的な成長に励んだり、精神的なつながりなんてどうでも良いと思っているんですよ。だから、日本人男性は会社から遅く帰宅して妻との会話が無くても全く平気な人達なんですよ。でも、それが日本では普通だから、誰も何も文句を言わないのです(涙)。
⑤日本で働きたければ、日本人にしか分からない日本の社会の暗黙の了解を知りなさい!
・・・以上の5つでした。
一応、彼からのアドバイス通りに現在の職場では振舞っていますので、どうにか仕事は続けています。
それから、私からのちょっとユダヤ教とキリスト教について付け加えて頂きたいモノがあります。
>彼らには、家族を守る父親としての責任もあったので、無駄な死を避けて捕虜となることは、少しも恥ずかしいことではなかった
●あの・・・これについてですが、この意見も正しいと思います。しかし、「欧米人=キリスト教徒&ユダヤ教徒」と考える時には忘れてはならないルールがあるのです。それはキリスト教徒とユダヤ教徒は、「自殺」が禁止されていると言う事です。それでユダヤ教では「安楽死」でさえ厳しいルールがあり、「active & passive」,「active & active」,「passive & passive」のように安楽死を望む患者とその家族に対しても「自殺」は「罪」であるとの理念があるので安易にはユダヤ教のラビから安楽死の許可が出ません。これは東京シナゴーグのラビであるRabbi Henri Noachからお教えして頂きました。キリスト教でも同様ですね、神父からの許可が必要ではないにしても、「自殺」は「罪」ですから死後に天国へ行くと言う考え方はまずありません。だから、キリスト教徒の私から言わせると、日本人が何故にあれ程までに「お花見」が好きなのか理解出来ない状態です。春に咲く花ならば、マグノリアの方が美しいと思いますけど・・・。その「武士が桜のようにパッと散る」様が美しいと言う意味さえ知らない日本人も「お花見」に拘るなんて、その集団心理と言うか、「皆がキレイ!」と言えば多数派意見で「それじゃ~、僕もキレイと思うよ!」なんて簡単な理由から「お花見」をして騒ぐのも変だと思いました。
>「恥の文化」と「罪の文化」
● これは、ルース・ベネディクトが言い出したモノですが、確かに「罪の文化」には甘えがなく厳しい社会だと思います。例えば、ドイツ語で「eine falsche Schlange(蛇女)」と言う単語があります。これは「エデンの園でアダムとエバを騙した蛇のように、他人に嘘を吹聴して間違った道に導く根性の悪い女」を意味します。だから、欧米では「腹黒い人間」はキリスト教が意味する「罪人」です。それで相手に対して具合いの悪い事でも正直にストレートに話したり、嫌いな人に対しては全くコンタクトを取るのを止めます。でも、そんな時にでも私とほんの2、3回しか某サイトで会話した事のない日本人でも甘えなのか開き直りなのか、、、変な事を言い出すんですよね、「仲良しほど喧嘩する!」と。これは全くの誤解であって、私は相手に「貴方は失礼な人です!」とストレートに伝えたくて言ったにも関わらず、その男性は「僕と君は仲良し!」と誤って理解してしまったのでした。そして、オマケに仏教徒もキリスト教徒も同じ人間だから「情」で分かり合えると信じていたみたいでした。ヨーロッパ人である私が「貴方は失礼な人だから嫌いです!」と言った時には、嫌い以外の何モノでもないんです。サイトで会話しただけなのに、「仲良しほど喧嘩する!」はないだろう!本当に、仏教とかは全く関係ないと思いますが、日本人は相手が自分の思う通りに行動する事を無意識に期待しているし、何も言わなくても自分が思うように行動してくれるだろうと信じ込んでいるのも「甘え」だと思いました。別に、欧米人は個人主義だから、そんな相手に合わせて行動する義務があるなんて考えませんから。他人である私の行動をコントロールする権利なんて、親でもない「貴方」には全く無いのですから。私だって神から与えられた自由意志を持つ一人の人間なんです。私が「貴方」の期待通りに行動しなくても私は何でもないし、それは「貴方」の問題であって、私の問題ではありませんし。
ちょっと最近、日本で遭遇した問題についてのウップン晴らしをしたような意見になってしまい申し訳ありませんでした。
>>tomoching2さん
日本人って本当に甘ったれですよね。
私も最近、ある掲示板(「議論する掲示板」と利用規約に書かれています)で発言したら、私の発言を他の人が論理的にずれた解釈をしてしまったんです。
そうしたら、その話題に参加している人たちが、
「おまえの発言が言葉足らずだから、誤解させたおまえが悪い」
と言うんです!
私の発言が言葉足らずだったのではなく、私の発言を論理的にずれた解釈をした人が悪いと思うのですが、彼らに言わせると
「議論の場であっても、発言が誤解を招かないように配慮すべきだ」
ということなのだそうです。
これっておかしくないですか?
議論の場で他人の発言に不透明な部分があったなら、自分からその点について真意を確認するべきであって、他人が全てわかりやすく説明してくれるのを最初から期待しているのは、「甘え」以外の何物でもないと思います。
私も性格がガイジンなので(カトリックの高校に通って授業でキリスト教を学んだことが一因だと思っています)、日本人の「甘え」の精神構造には反吐が出ます。
>幼児的であることは、必ずしも悪いことばかりではない。世界的にヒットした小型製品や、世界的に高く評価されているアニメや漫画を作り出すことができるのは、日本人の幼児性のおかげである。しかし、政治や外交や安全保障の分野では、幼児的であることは、致命的な短所である。これまで、日本は、経済では一流だが、政治では二流だといわれてきた。政治や外交や安全保障の分野で一流でありたいと願うのであれば、日本人はもっと大人にならなければならない。
この結論についてですが、「政治や外交や安全保障の分野で一流」とは、どういった状態を言うのでしょうか?現在の主権国家の中で、外交や安全保障や政治が一流である国はどこですか?
現在日本人の生活水準や、物質的豊かさは世界屈指です。政治や外交や安全保障が他国よりも劣り、精神的に幼児的な国民により構成されている国家が、経済的にのみ豊かになるということが有り得るのでしょうか?もし有り得るのだとしたら、現在の世界は、多少国民が甘ったれていて幼児的であっても、十分豊かさを確保できる状況にあると考えれます。もっと言えば、その方が現在の世情に経済的には有利に作用しているのかもしれません。
比較的成熟した大人の精神性を持つ国民により構成された国で(欧米ですか?)、なぜ日本より政治的又は、安全保障において、より深刻な問題を抱えた国があるのでしょうか。
根本的にに幼児性を有すことで、その時代の世情に応じて、柔軟に変化できる可能性を常に確保している、そういったバランス感覚が日本人にある、とは考えられませんでしょうか。少なくとも大人よりも、子供の方が環境への順応力は上だと思います。
「強いものが生き残るのではなく、変化に対応できるものが生き残る」とよく言われますが、そういった意味では、多少幼児性があるほうがいいような気もします。
政治や経済において、全ての事項においてベストの選択は無理だと思います。要は、バランス感覚ではないでしょうか。国家の政治の目的は、国民が豊かに、安全に生活できることですから、今の日本は少なくともその水準は相対的に高いレベルで確保されていると思います。政治や外交に駄目出しをすれば、どんな国だっていくらでもあります。
大人になる必要があるのでしょうか?
>日本人の「甘え」の精神構造には反吐が出ます。
居住している国の、国民の精神構造に反吐が出るなんて言ってるほうが、甘ったれていると思います。違いを許容できない人は、大人とは言えないと思います。
“政治や外交や安全保障が他国よりも劣り、精神的に幼児的な国民により構成されている国家が、経済的にのみ豊かになるということが有り得るのでしょうか?”
日本が冷戦時代に経済的に成功できたのは、米国が、日本の親として、政治や外交や安全保障の分野でよく面倒を見てくれたからです。80年代後半以降、米国が日本を敵視し始めてから、日本経済は悪化の一途をたどっています。もしも、日銀が、ブラックマンデー以降の米国を助けるために低金利政策を維持していなかったならば、日本政府が、米国の助言を真に受けて、内需拡大のためと称して、リゾート開発に血道をあげていなければ、日本の経済は今頃こんなにひどくはならなかったでしょう。日本経済を立て直すためには、外国に言われるがままの政治しかできない現在の日本の政治のあり方を変える必要性があります。
当に筆者の仰る通りです。あまりにも知的な記事なので、びっくりしました。私は外国の者で、日本を外から見ていますので、ある程度客観的に観察のできると思います。確かに日本の方々にはある程度幼児的な性格の持ち主はいます。人はまちまちと言いましても、ある程度一般化しますとそう言えます。当に筆者の通りでございます。こんなに知的で、ちゃんとした記事は珍しいです。但し、こちらから伺いたいのですが、日本の方々は幼児的ではありますが、世界の一流の技術を持っている国のひとつである限り、そのままでも良いではないでしょうか。“大人”荷ならなくても良いではないでしょうか?
新しい技術を開発するには、幼児的な遊び心が必要ですが、それを実用化し、普及させていくには、リーダーシップのある大人の経営者と大人の政治家が必要です。日本のように、後者が弱いと、潜在的に有用な技術が死蔵されてしまいます。一流の技術を生かすことができないということは、日本にとってのみならず世界にとって不幸なことです。
ごもっともでございます。では、どうやって“大人”にさせるのでしょうか?。教育でしょうか?
ロバート スミスさん、よくも、悪くも日本は外国に依存していす。外国のなければ、今の日本は今のような発展を遂げなかったと思います。外国は日本製の高くて質のいい製品を買わなくなると、日本の企業はどうなさいますか?良くも悪くも、外国から離れません(ま、鎖国しない限りネ:ー)))。。確かに経済を立て直す必要はアルと思います。但し立て直すなら全世界の金融体系です。現実的にしなければならないのではないでしょうか?
大人の指導者を育てるには、企業なり国家なりの意思決定システムを変える必要があります。日本では、長老たちが密室で物事を決めるということが多いのですが、これだと責任の所在がはっきりしないし、戦略的な一貫性を欠くことになりかねません。ですから、民主的なプロセスで指導者を選び、そしてその指導者に権限と責任を持たせるようにするべきでしょう。例えば、首相公選制を導入するとか、株式の持合をやめて、株主民主主義を形骸化させないようにするといったことが必要だと思います。
菊と刀といえば、この随筆を思い出しました。
〜悪らつな書『菊と刀』〜
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/ni.kikutokatana.html
後一ついい加えたかったのは、あくまで、私の経験なんですけれども、日本の方の幼児的さはよく個人付き合いとかで現れます。仕事なら、他国とそんな違いはないな様なきがします。
What exactly do you mean by "gender free"?
The ideal of "gender-free" in Japanese is equivalent to "gender equality". You can find similar strange English expression in Japanese websites, such as "link-free", which means, "You can freely link this website without my permission."
>日本には、いつまでも咲き続ける梅の花よりも、すぐに散ってしまう桜の花を愛する独特の美学がある。
日本人の幼児性は理解しますが
梅の花は年中咲いてません
http://minabe.net/gaku/hana/kaikazensen.html
桜との対比でそう書いたのですが、たしかに、文字通り取れば、永遠に咲き続けるという意味になってしまうので、「長い間咲き続ける梅の花」と訂正しました。
土居健郎氏の訃報記事よりまいりました。
「日本人幼稚論」たいへん勉強になりました。
ただ、残念なことに論証における前提であるところの例文に
いささか難があるような気がいたします。
>イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、
>その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、
>彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話もよく聞く。
こんな話は"よく聞く"はずがありません(苦笑)
イスラムの方と乗り合わせて、席を譲られて、さらに息子を座らせる
果たしてどれほどの確率でしょうか。
私は仕事上、イスラエルの方と同席させていただくことがありますが
このような場面にはでくわしたことがありません。
さらに言えば、妻を手ぶらで座らせておくほど男性的なイスラムの方が、
「老母と息子」に出会う日に限って、
毎回座席に座っていたというのもおかしな話です。
一度はあるけど二度は無い、都市伝説の域を出ない話だと思います。
こういった例え話は、実証にあたるとても重要な部分です。
実証がいいかげんでは、どんなに素晴らしい仮説も認められることはありません。
永井先生にはぜひとも新たな実証を添えた「日本人幼稚論」を
語っていただきたく存じます。
台湾でも、親はいい年した子供に(乗り物の)座らせるのは、普通ですよ。でもなぜでしょう?
台湾ではかなりジェンダーフリー化しています。上司が女性であることは、しょっちゅうです。年齢も関係ありません。
台湾は仏教より、土着の道教的宗教が普遍的ですが、ものの考えからとしては、どちらかというと「罪の文化」という感じはします、何でもはっきり聞きますし。でも結構幼稚なところもあって、日本にかわいらしいアニメキャラクターに夢中な人は多くいます。恋愛ごとで、相手にこれだけしてあげたから、相手もそうしてくれるだろうと過度に期待する様子は、日本人以上で、私からみれば、そうとう幼稚な感じはします。でもこれって「give and take」の大陸的な契約概念にもとづいているだけなんでしょうか?
私個人としては、してはいけないことをしなければ非難されない社会でいきるほうが楽です。年齢ごとにしていいこととよくないことの暗黙的なよくわからない決まりごとがある社会(特に学術関係はかなり縦社会な感じがします。)は、優秀な人材を無駄にしているようにおもえます。
ですが、縦社会で育ったほとんどのひとは、それになれているようで、それが自分に身にあっていれば、別にそれもいいのだと思います。社会全体がそれでうまくいけば一番いいのではないかと思います。無理にかえようとしてシステムを変えても、実態が付いてこないというのは、日本の法律と同じと思います。ただしそういう社会が他の先進国を相手に外交するのをみているとなんだか幼稚だな~と思ってしまいます。
まとまりのない文ですみません。
前文に続きますが、永井先生のおっしゃることは理論的には理解できますが、日本人に「もっと大人になろう!」と呼びかけて本当に人々が自覚するのかはちょっと疑問です。人の思考方法を変えるのは相当大変だと思います。新しく”導入”された陪審制など、欧米の殻(システム)を思考回路の違う日本に当てはめようとして日本人は困惑していると思います。一般の人々が裁判は陪審制であるべきという観念が通用している社会でこそ、陪審制はうまく働くわけで、日本のようにお上が採決を下してくれるという観念が普及している社会では、単に迷惑モノのように思えます。私個人は「恥の文化」的社会は肌にあわないのですが、それを批判するつもりはなく、変えなくてはならないとも思いません。日本国内はそれでうまくいっているのですし、今の文化的概念は日本経済の成功のもとなのですから、それを変えてしまうのも、失ってしまいかねないこともあるかもしれません。「恥の文化」にもとづいた幼稚な観念がいやな人はわたしみたいにアジアやヨーロッパ、アメリカに出て行って自分に合うところを見つければいいのです(私は決してたいした人間ではありませんが、日本は優秀な人物を流失してる可能性は結構あるかもしれませんね~)。それよりも、日本の「恥の文化」的思考は海外では通用しないことを自覚したうえで、外交の際には、そういった点をわきまえているスペシャリストを雇って、そのスペシャリストに日本の希望や条件をしっかり伝えて協議に力を尽くしてもらうほうが、ちんぷんかんぷんな外交にならなくてすむような気がします。
思いつくままに書いてしまってまとまりなくてすみません。誤字脱字あると思います。
日本が、日本文化のネオテニー的性格を維持しているのは、それが必要であるからという見方はないのでしょうか。何でも欧米が良いという見方でしか、世の中を捉えられないとしたら、もし、欧米が人のあるべき姿から逸脱していたとしたとき、リカバリできる要素を摘むことになるような気がします。大人になる必要が本当にあるのか。大人にならないのに、大人とつきあえる存在が、必要とされているから、日本が存在しているという見方もあり得るような気がします。甘えの構造である日本社会は、基本的には、そのままで良いようが、対外的な部分で、補完できる人材を育成し配置できるシステムが整っていればそれで充分であるという考え方もあるのかなという気がします。
「イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話」という表現における類(たぐい)に注意しましょう。これと全く同じ内容の話を何度も聞いたということではありません。
例が足りないというのなら、もう少し付け足しましょう。欧米では、主人(ホスト)が、料理や飲み物をふるまうのが習慣ですが、こういう光景を見慣れている人からすれば、座ったまま、奥さんから与えられた食べ物や飲み物を口にしている日本の主人は、まるで母親に食事の世話をしてもらっている子供のようで、幼稚に見えるそうです。
こういった「類」の話は、よくあるでしょう。
“台湾でも、親はいい年した子供に(乗り物の)座らせるのは、普通ですよ。でもなぜでしょう? ”
大陸から海によって隔てられ、大陸の強大な軍事力によって奴隷になった体験の少ない島国民族には、去勢以前の文化が淘汰されずに温存されていることが多いです。台湾人は、日本と同様に、島国民族なので、大陸から来た中国人を除けば、幼児性を残しているのでしょう。なお、同じ島国といっても、イギリスのように、大陸からの移民によって何度も征服され、原住民がほとんど残っていないようなところは、日本とは異なります。
“甘えの構造である日本社会は、基本的には、そのままで良いようが、対外的な部分で、補完できる人材を育成し配置できるシステムが整っていればそれで充分であるという考え方もあるのかなという気がします。 ”
主体性の欠如がもたらす弊害は、外交にのみ限定されるわけではないと思います。フォーディズムの時代が終わった以上、国家や大企業に甘えて依存する国民の意識を、今後は変える必要があると思います。
お返事ありがとうございます。楽しく読ませていただいてます。ちょっと気がついたことがあるので投稿させてください。
台湾は清朝時代から福建省から移民してきた漢人が人口の大多数を占めているので、感じとしては台湾は”イギリスのように、大陸からの移民によって何度も征服され、原住民がほとんど残っていない”という感じはします。原住民は山地地方に多く住んでいますが、漢人による保護政策で守られているという感じで、居住地帯の地形と政策で事実上隔離されているようなものです(隔離は決してされていませんが)。台湾の主な言語は漢人の言語である北京語と台湾語(ミンナン語)ですが、どちらも文法的には同じ(発音はぜんぜんちがいます。ミンナン語は古文に近い)ですし、それらの言語の文法的な構造はかなり英語に近い感じがします。台湾の男性は一般的に女性に服従している感じで、日本の男性のように「女は三歩下がってついてこい」という、永井さん言葉をお借りすれば日本人の男性にありがちな”幼稚”な夢は毛頭も持っていない感じがします。かとはいえ、西洋人の男性が女性を”ペット”扱いするようでもないのです。どちらかといえば、「女にはかなわないから、服従する」というような、女性に降参しているような感じです。台湾の歴史をかんがみると、いろいろな国から征服されていますが、大してどの統治者にも大して反抗しないで受け入れているといった感じで、韓国人が持つ過去の統治者(国)への反感感情もほとんどなく、どちらかというと私にも理解できないほど日本の文化にかなり親近感があるような感じです。それから叙情的に流されやすいと言った感がよく見受けられ、その点では日本人にかなり似た感じはします。台湾語や北京語は、かなり無駄のない、英語よりもかなりロジックな言語であるのに、そういう言葉を操る人たちが、叙情的に流されやすい性格をしているのは、なかなか理解できません。とはいえ、西洋人のように「何でもはっきりさせないと相手は理解しない」という考えが基本的で、あうんの呼吸で通じるという考えはないようです。不思議な国ですね。またまたまとまりのない文ですみません。。。
記事を読み
筆者自身がどのような人間なのか少し気になりました。
実際に自分が体験したこと、聞いたことではないことも
自身の頭の中で勝手に決めつけ記事を書いているような印象を強く受けました。
真剣勝負は一瞬で決まる
短くて当然なのです
エロい人にはそれがわからんのです
よく日本人は「短命の人に惹かれる」と聞きますが、これは「源義経の判官びいき」が起源でしょうか?これも幼児的の1つと捕らえると、若い人に惹かれる事(現代風に言うと「萌え」の概念)が幼児的でしょうか?また「老害」と言う侮辱言葉があるように、日本人は昔から高齢者に冷たい部分があります。最近では「若害」と言う言葉もあり、また「若害を撒き散らした人は老害を撒き散らす事はない」と言う新しい格言もあります。日本での幼児的文化は古来からありました。
最後に「幼児的」と「幼稚的」の違いはどこにあると感じますか?
「短命の人に惹かれる」という話は聞いたことがありません。「老害」という言葉はよく耳にしますが、これは、年齢とともに地位が高くなる年功序列社会においては、地位と能力のギャップが生じやすくなることが原因でしょう。「幼稚」には侮蔑的なニュアンスがありますが、「幼児的」は一般にはそうでないし、少なくとも、本稿では、価値中立的な意味で使っています
先日「短命の人に惹かれる」と書いたのは、本文中の「(日本は)長く咲く梅より、すぐに散る桜を愛する美学」の部分と、若くして非業の死を遂げた戦国武将や、幕末の勤皇の志士や新撰組の隊士のファン(その生き方に惹かれるという意味。最近では若くして死んだ名優や人気歌手が該当)が近年増えているという事を踏まえての事で、社会全体が必ずしもがそうであるとは言えません。
また経済・社会情勢も踏まえて、少々うがった風に言い換えると「日本社会が長寿を嫌う傾向にある」とも言えます。
比較的早く自立できるかできないのかが、幼児的発想の終焉のカギでしょうか?
平均寿命の短い時代は成人年齢が若く(就学期間が短い)初婚年齢・出産年齢が早いです。幼児的からの卒業が昔はできていた時期がある思います。
男性と女性とでの認識の差はあるでしょうか?
短命そのものが尊重されていることはないと思いますが、不幸な死を遂げた者に対する憐れみの情に厚いという傾向ならあるでしょう。その起源は、日本に特有な怨霊慰撫の文化にあります。古代の日本人が、怨霊の報復を恐れたのは、それを禁止する父なる神が不在だったからでしょう。その意味では、このこともまた、日本文化が去勢以前的段階にあることの特徴の一つといえます。
判らないことがあります。
教えていただけませんか?
罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。についてですが、
まず、罪の文化とは何ですか?
また恥の文化が何故、幼児的に見えるといえるのでしょうか?
罪というのは、法が罪だと定めているから罪となるのではないでしょうか?
それに比べ恥とは、自己の言動に対しての責任を罪よりも重く捉えているように思えます。人から悪いと言われるよりも自ら悪いと感じ謝罪などの行動に移すことは、とても素晴らしいものだと思います。
そんな恥が、罪の文化よりも劣り幼児的だと言われていることに違和感を覚えます。
一神教の文化圏において、罪とは、神の掟を破ることであって、人が作った法に違反することではありません。非宗教的に言うと、罪の文化において重要なことは、自分の良心に従って行動することであって、他人の顔色を伺って行動することではありません。「人から悪いと言われるよりも自ら悪いと感じ謝罪などの行動に移すことは、とても素晴らしいものだ」というのは、罪の文化の価値観です。なお、幼児的であるからといって、劣っているとはかぎりません。パブロ・ピカソは、子供のような絵を理想としました。子供が大人になることによって、得るものがある半面、失うものもあるのです。
空様
>>菊と刀といえば、この随筆を思い出しました。
>>〜悪らつな書『菊と刀』〜
>>http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/ni.kikutokatana.html
こんな主張もあります。
『菊と刀』注解 目次
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/chukai0/index.htm
本分に関係がなくて申し訳ないんですが、「戦国時代から明治維新にかけての権力の集権化・・・」とコメントされてるところについて。
江戸時代は集権的というより地方主権的であったように思います。
中央に従うのは公共事業とか参勤交代くらいで、あとは基本自由だったような気が・・・
江戸時代は、明治時代と比べると地方分権的ですが、戦国時代と比べると中央集権的です。戦国時代→江戸時代→明治時代という時代の変遷を通じて、日本の政治は中央集権化されました。「戦国時代から明治維新にかけての権力の集権化」というのは、そういう意味で、間違っていないと思います。
中世に十字軍を送り込んでアラブを侵略し、近世にアフリカ、オーストラリア、南北アメリカを植民地支配した高貴な野蛮人である白人は植民地支配した国々に対して一切謝罪と補償をしていません。大人とはきちんと責任を取るものではないでしょうか? 白人こそが子供です。日本は中国に対して29回も謝罪していますしODAによる多額の援助を行っています。また、韓国に対しては日韓基本条約を結んで謝罪と補償を行っています。日本人が大人で白人が子供だと私は思います。
ミニチュアを作るというのは小さいものを作るという事ではなく、今まで8個の回路を使用していたものを1つの回路で同じ効果を出せるようにし、さらに上回る性能を作り上げるというような感じですよね。
それが出来るのは大和民族の脳の構造、つまり先天的な能力ではないでしょうか。
これは日本人の幼児性やら胎内回帰願望などの後天的な思考形態で事を成し遂げられるほど簡単なことではないです。
現に中国人には真似出来ないですし、そっくりそのまま他の民族を日本と同じ環境で育て同じ教育をしても、きっとできないでしょう。
新しいものを生み出す(発明する)能力は無いですが、それ自体が思考回路云々ではなく、もともとの脳の構造の違いだと思います。