貨幣と言語の類似性
自給自足の経済を想像することができるように、他者の力を借りずに自分だけで情報収集や創作をする文化も想像可能である。だが、実際には、私たちは貨幣を通じて商品交換をするし、言語を通じて意見交換をする。
1. コミュニケーションメディアとしての貨幣と言語
貨幣が、交換の相手が、自分が望む商品を所有しているかどうかという不確定性と自分が所有している商品を望んでいるかどうかという不確定性からなるダブルコンティンジェンシーを縮減するがゆえに、コミュニケーションメディアであるのと同様に、言語は、自分の表現を相手が理解するかどうかという不確定性と相手の表現を自分が理解しているかどうかという不確定性からなるダブルコンティンジェンシーを縮減するがゆえに、コミュニケーションメディアである。
現在世界には、約6000の言語があるが、世界の人々とコミュニケーションするために、6000の言語を習得することは、物々交換と同様、多くの困難を伴う。英語を世界共通語として利用すれば、習得しなければならない言語は、多くとも二つですむ。それは、分業化された貨幣経済で商品交換をするために必要な資産は、自分の労働の産物と貨幣の二つですむことと類比的ある。
2. 貨幣と言語による価値の測定と交換
話者にしか理解できない言語を私的言語という。言語一般と私的言語の関係は、英語とローカル言語の関係と同じである。私的言語など存在しないと思うかもしれない。しかし記号的象徴化が経験的多様性を抽象(捨象)する時、選択は常に他のようにも可能であり、そしてこの可能性の他者性が他者性の可能性であるのだから、個人レベルにおいても、自己の選択を他者が誤って選択する可能性と自己が他者の選択を誤って選択する可能性がある。
言語による選択には、1.無意味から意味を区別する選択、2.誤謬から真理を区別する選択、3.無価値から価値を区別する選択の三つのレベルがある。どのレベルでも、選択はネゲントロピーであるから、価値を生む。英語の"value"は、数"値"や音"価"といったように、1や2のレベルでも使われる。しかし言語市場で人々の欲望の的となるのは、3番目の最も洗練された、狭義の価値である。
貨幣が商品の価値を代表(represent)しているように、言語は意味と真理を表象(represent)しているとは言えない。知的活動の産物である文化的作品を労働の産物である経済的商品と比べてみるならば、意味があるか否かは存在するかどうかと、真であるか否かは有用であるかどうかと同じである。商品の場合、有用性があっても、希少性がないと価値があるとは言えない。同様に誰もが知っている真理には情報としての価値がない。評価されるには、ニュースには意外性が、学説には独創性が要求されるのである。
ある商品の価値の総額は、何人の買い手が、その商品と引き換えにどれだけの犠牲を払おうとするか、で決まる。空気や日光のように有用だが希少性がない財は、その獲得と引き換えに何も犠牲にする必要がないがゆえに、価格はゼロである。言語表現の理解においても、新たな知識を受け入れるということは、その知識と矛盾する過去の認識を犠牲にすることを伴う。既に知っている知識は、その獲得と引き換えに何も犠牲にする必要がないがゆえに、価値はゼロである。新しい知識は、それがより多くの人のより多くの過去の知識を否定すればするほど、より多くの価値を持つ。
通貨は経済的商品の価格を消費者が提供する貨幣の数によって表現するが、記号は文化的作品の値打ちを消費者の賞賛を意味する記号の数によって表現する。賞賛は言語で表現されるとは限らない。拍手のような象徴的記号で表現することもできる。
3. 貨幣と言語による価値の貯蔵
貨幣には、価値を測定し、交換する機能以外に価値を貯蔵する機能もある。言語にも、交換と測定の二つの機能以外に、知識を貯蔵する機能がある。
貨幣と言語の流通を決めるのは、それが代表象する価値と知識のストックとフローである。エスペラント語のように、いくら言語として合理的でも、ストックが乏しいと普及しないし、逆にギリシャ語やラテン語は、フローがなくてもストックが豊かであるから、今でも学ぶ人がいる。電子マネーも、そのICカードがいくら利便性に優れていても、発行者のストックが他の貨幣発行者と比べて十分でなければ、普及しない。
| 書名 | 話すということ―言語的交換のエコノミー |
|---|---|
| 媒体 | 単行本 |
| 著者 | ピエール・ブルデュー 他 |
| 出版社と出版時期 | 藤原書店, 1993/01 |













