哲学・数学・言語学
18世紀のイギリスの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果の結びつきだけでなく、原因と結果の分割自体が主観的であり、その主観的動機を考えるならば、事象を原因と結果に分割した段階で、既に両者の関係は不確定になっていると言うことができる。
認識とは、対象を受動的に模写するだけのことなのか。それとも対象を積極的に構成することなのか。模写説か構成説か、実在論か観念論か、唯物論か唯心論か。哲学史上の論争をジェンダー論の観点から振り返り、システム論的な止揚を試みる。
自分の認識の不確実性を認識しても、その不確実性の認識の不確実性は意識の地平に現れない。だから、地平内在的な確率と地平超越的な確率を区別する必要がある。そしてこの区別に基づいて、所謂「嘘つきのパラドクス」を解消することができる。することができる。
“It must be true.”の否定文は何か。これは、英文法の問題というよりも、様相論理学の問題である。答えは、“must”という法助動詞(modal auxiliary)を使う以上、二値論理学的にではなくて、多値論理学的に求められなければならない。
地平線も境界線も、内と外を区別する、似たような線だと思うかもしれない。しかし、システム論的には、システムの境界が《否定の能力》によって形成されるのに対して、システムの地平は《能力の否定》によって形成されるので、両者は対照的な関係にある。
「定義とは何か」という問いは答えにくい問いである。この問いは定義の定義を求めているのだが、定義を定義しようとするならば、あらかじめ定義とは何かが分かっていなければならないからだ。この循環のディレンマから抜け出るために、いったん伝統的な方法で定義を定義した後で、その妥当性を検討する方法をとることにしよう。
不定冠詞や「すべて all」や「いくつかの some」などがついた、複数の個体を指示することができる述語を不確定記述というのに対して、固有名詞によって指示されるような、世界に一つしかない個体を指示する、定冠詞のついた述語を確定記述という。では、確定記述は個体の本質を同定できるであろうか。そして固有名詞は確定記述で置換可能であろうか。
実存(exsistentia 現実的存在)と本質はしばしば対比される。サルトルのような実存主義者が「実存は本質に先立つ」と言う時、本質を、存在とは異なった、存在者のイデア的本性として位置付けている。
一般には原因も理由も、何かを説明するために、区別なく使われているが、哲学的には、両者は区別されるべきである。原因(cause)が「惹き起こす」、理由(reason)が「推論する」という動詞として使われることを手掛かりに、両者の違いを探っていこう。
私たちは、自分たちが三次元の空間の中で生きていることを自明だと考えているが、しかし三次元の空間は、決して直接的に知覚されるわけではない。なぜ私たちは空間を三次元と解釈するのか。
「時間とは何か」は永遠の哲学的問題とこれまでは考えられてきた。しかし、物理的な時間は、物理学的に定義できる。では、意識の流れとしての時間はどう考えたらよいだろうか。
哲学の専門家たちは、「超越論的意識」とか「超越論的間主観性」などと、「超越論的」という形容詞を頻繁に使う。今回はこの一見難解そうなジャーゴンをできるだけ平易に説明してみたい。
よく記憶喪失に陥った(と称する)人が「私って、だぁ~れ?」ととぼけた質問をする。自分の名前まで忘れた人が、「私は…である」という文法形式の方はしっかり覚えているというのは、不思議なものであるが、「私」という言葉の使い方は、生得的ではなく、学習によって習得されるものである。多くの幼児は、自分のことを言及するのに、当初固有名詞を使う。「私」「ぼく」「おれ」といった一人称代名詞は、言語の使い方を学び始めて20ヶ月ほどたってからでないと習得されない難しい言葉なのである。では、私たちは、いつ、どのようにして、そしてなぜ一人称代名詞を使うようになったのだろうか。
もしも、言語が世界を忠実に写し取り、それを他者に伝達するための手段だとするならば、そこには二つの不完全性がある。しかし、その不完全性は、私たちにとって必要な不完全性である。
自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。
真理の意味と基準は何であるのか、これは哲学の永遠の問題である。対応説、整合説、権力説という主要な学説を検討しながら、その本質に迫ってみたい。
私たちは、自分には意識があるが、ロボットには意識がないと考えている。あるシステムに意識があるかないかをどのような基準で判断すればよいだろうか。
オートポイエーシスは、もともと生物学から生まれた概念だが、哲学や社会学でもよく使われるようになった。オートポイエーシスとは何かを、自己組織化、自己指示、自己反省など隣接概念との意味の区別を通じて考えていきたい。
システムは、要素を構成して構造を作る。では要素の最小単位は何であろうか。物質システムの最小単位はアトムで、情報システムの最小単位はビットだと言ってよいだろうか。
神秘的一元論者は、近代の哲学者たちの二元論的な認識論を批判する。しかし、私たちは、二元論か一元論かという対立地平を克服し、二元論から成り立つ多元論化を目指さなければならない。




