心理学・精神分析学・教育学
ファルスがたんなるペニスではなく、無のシニフィアンであるというのは、どういう意味なのか。私たちが、自分自身を同一化しようとするファルスとは、どのような存在者なのか。1961-62年に行われたジャック・ラカンのセミネール『同一化』を手がかりに、トポロジカルに考えてみよう。
「竹島の日」制定をきっかけに、韓国人の反日感情が燃え上がった。なぜ韓国の反日活動家は、これほどまでに日本人を嫌い、被害妄想を膨らませるのだろうか。福原泰平の『ラカン―鏡像段階』を手掛かりに考えてみよう。
仏教は、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であるにもかかわらず、女性を蔑視するのはなぜか。この問いに答えるには、そもそもなぜ、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタが出家をしたのか、その動機を理解しなければならない。
2004年4月8日、当時早稲田大学大学院教授であった植草一秀は、品川駅高輪口の上りエスカレーターで、前に立っていた女子高生(15歳)のスカートの中を、手鏡を用いて覗き、東京都迷惑防止条例違反の疑いで、現行犯で逮捕され、2005年4月7日、東京地裁で、有罪が確定した。なぜ植草は、なぜこのような犯罪をしてしまったのだろうか。
鏡は、左右を逆にするのではなくて、逆になった左右をそのまま映しているだけである。私たちが、自分と鏡像を重ね合わせる時、左右を逆にするのは、私たちの身体が左右対称に近いからである。
ハレムは、フロイトが未開社会の神話において想定した、息子に去勢を強いて、女を独占する、専制君主的父親を髣髴とさせる。もし去勢を単に服従させることという意味で象徴的に理解するなら、人間の社会どころかサルの社会にまでハレムを見出すことができる。しかし、去勢を文字通り行った専制君主は、私が知る限り、オスマントルコ帝国のスルタンと中国の皇帝ぐらいである。ここでは、中国のハレムを精神分析学的に考察したい。
貨幣は、システム論的には、欲望の欲望というダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアであるが、精神分析学的にはファルスに相当する。貨幣の歴史を精神分析学的に振り返りながら、システム論と精神分析学の接点を見出そう。
拒食症とは、スリムになりたいという若い女性の間で普通に見られる願望から始められた過度のダイエットが原因の病気だと言われている。世の親たちが、こうした常識的な判断で我が子の拒食症を理解し、自分に向けられた本当のメッセージを読み取ることがないなら、子供の拒食症を直すことができないだろう。
不安と恐れは、危険に対する似たような感情であるが、恐れるということと不安を感じるということは同じではない。私たちが危険に対して不安を感じるのは、危険の対象についての情報が不足している時であって、十分な情報があるときには、危険に対して用心し、警戒するだけで不安を感じることはない。
愛という言葉は、しばしば「ワインをこよなく愛す」というように、「好き」と同じ意味で使われることがあるが、ここで問題にしたいのは、そうした嗜好としての愛ではない。といっても、物に対する愛とは異なった人間に対する愛という形で限定したいわけではない。異性をたんなるセックスマシーンとして弄ぶ人は、ワインを味わって飲む愛好家と同様、相手を自分の嗜好を満足させる対象としてしか扱っていない。では、私たちが「精神的」という言葉で形容したくなる、狭義の愛は、嗜好としての愛とどう異なっているのか。
1997年3月16日に、小学校4年生だった山下彩花ちゃんを金槌で殴り殺し、5月24日には、小学校6年生の土師淳くん(11歳)の頭部を切断し、神戸市立友が丘中学校正門前中学校正門付近に置いた犯人として、6月28日に、14歳の少年Aが逮捕された。なぜこの少年は、このような事件を起こしたのか。
1996年11月、東京都内のマンションの一室で、家庭内暴力に悩む父親が、14才の長男を金属バットで殴り殺し、社会に大きな衝撃を与えた。事件発生当時よりも、家庭内暴力の詳細が明らかになった時の方が、世間の関心は高まった。なぜこのような事件が起きたかに関して、キャスターや評論家たちがいろんなことを言っていたが、私は、この家族の病理は、ファルスの不在にあると考えている。そして長男を殺害した父親は最後までこの原因が分かっていなかった。そして、分かっていなかったからこそ、最悪の結果に終わったのである。
精神分析学にとって、比喩は重要な手掛かりである。直喩、隠喩、提喩、換喩といった比喩法の構造的な違いを理解しながら、深層心理がどのように言説へと反映されるのかを考えてみよう。













