社会学・社会史学
私が大学を去ってから10年程が経つ。大学淘汰の時代を迎え、少しは改革が進んでいるのかと思っていたが、『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』を読むと、根本的な問題は何も解決していないという印象を得る。沈み行くタイタニックの甲板上で椅子取り合戦をしている教授たちを見ていると、もっと本格的な淘汰が必要なのではないかと思ってしまう。
2004年から、日本のマスメディアに韓流ブームがおきた。国粋的な日本人の中には、眉を顰める人もいるが、もともと日本の芸能界には在日コリアンが多いし、外国人が芸能界でもてはやされるというのは自然な現象である。そもそも芸能人とはいかなる存在なのか、カタルシス理論の観点から分析しよう。
現在日本では、売買春は法律で禁止されている。そして、多くの男たちは、「買春は悪だ」と、少なくとも頭では理解している。体が言うことを聞くかどうかは別として。では、この長く信じられてきた価値観に根拠はあるのか。はたして、「誰にも迷惑をかけずに、お互い自由意志で合意してやっているのだから、なーんにも悪くないじゃん」と開き直る売買春肯定論者の主張を、説得力ある理由を挙げて論破することは可能だろうか。いくつか候補を挙げて、その妥当性を検討してみよう。
人間の社会においては、有史以来、男が女よりも主導的な働きをしてきたというのが常識である。現代でも、建前はともかく、相変わらず男社会が続いている。女性が要職に就くたびに、「これからは女の時代だ」とマスコミが騒ぐのは、逆に、女性が依然として低く見られている証拠である。しかし、人類の歴史全体を通して、常に男尊女卑であったわけではない。有史以前は、むしろ女尊男卑の時代だった。
スケープゴートになりやすい色は、黄色である。黄色は、金の色であり、魅力的であると同時に嫌悪すべき両義的な色である。心理的には、黄色は、緑(安全)と赤(危険)の境界に存在する、不安を掻き立てる色である。
農村と都市との間には、人口密度が低いか否か、農業に従事しているか否かという以上の違いがある。両者の違いの本質はどこにあるのか、それがなぜ犯罪発生率の違いに結びつくのかといった問題をシステム論的観点から考えてみたい。
江戸時代中期以降の日本の人口には、あまり変動がなかった。武士など特殊階級を除く全国の人口は、幕府が調査を始めた1721年で2600万人、最も少ない時で2489万人(1792年)、最も多い時で2720万人(1828年)で、きわめて安定的に推移した。もし何も制約がなければ、人口は等比数列的に増えるはずである。では、江戸時代の日本では、どのようなメカニズムが人口爆発を抑制したのか。
物々交換が、快楽の交換という意味でポジティブな交換であるとするならば、復讐は、苦痛の交換という意味でネガティブな交換である。ポジティブな交換の媒介者が貨幣だとするならば、ネガティブな交換における貨幣は何か
一般的に言って、社会科学は自然科学より厳密性を欠くので、社会科学者は自然科学にコンプレックスを感じている。その結果、自然科学の新しいパラダイムが現れると、それに追従しようとする社会科学者が必ず現れる。複雑系ブームの場合もしかりである。しかし社会システムを複雑系として扱う前に、それがいかなる意味で複雑系なのかを理解しておく必要がある。
上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定することであり、上品さにおいて文化が自然から区別される。上品さは、上流階級の人々が富を衒示的に浪費することで示されるステータスシンボルである。
《すべての生物は自己保存の欲望を持つ》という生物学の仮説にとって、冒険という快楽は説明しにくい現象である。実用的な目的のある冒険で、《身を危険に晒すにもかかわらず快楽を感じる》現象なら簡単に説明できる。では、実用的な目的の全くない冒険で、《身を危険に晒すがゆえに快楽を感じる》現象はどうだろうか。
文化(culture)が、「土地を耕す」「栽培する」を意味するラテン語 colere に由来するのに対して、文明(civilization)は、「市民」を意味するラテン語 civis に由来する。文化が農村的であるのに対して、文明は都会的である。前回、農耕文化の誕生を論じたので、今回は、都市文明の誕生をエントロピー理論に基づいて分析することにしよう。
多くの日本人は、いじめというと学校でのいじめを思い浮かべる。実際には、いじめは、学校に限らず、社会のいたるところに存在するのだが、範例として学校でのいじめを取り上げながら、なぜいじめが起きるのかをシステム論的に分析しつつ、その解決策を探る。
スケープゴートのもともとのヘブライ語での意味は、古代ユダヤ人の罪を象徴的に負うヤギのことであるが、転じて、他人の過失の責任をとる身代わりの個人または集団という意味で使われるようになった。では、どのような存在者がスケープゴートの候補となるのか
中心/周縁という区別は、中心に宮廷や寺院が位置し、それを官僚や貴族の居住地区が取り囲み、さらにはそれらを商人、職人、農民という周縁が取り巻いている古代都市などに見られる階層構造をモデルにした概念だが、社会学では、社会システムにおける<資本=権力>の偏在を表す対概念として非地理的に使われることが多い。
ブランド物で身を固め、ライバルにファッションセンスの違いをひけらかす女性たち、経歴や肩書きで一般大衆との違いを誇示しようとする知的エリートたち、自分の影響力を見せつけ、部下の忠誠を絶えず確認しようとする、猿山から永田町にいたるあらゆる場所にいるボスたち…多くの人々は、差異への欲望を満たそうとする。
自給自足の経済を想像することができるように、他者の力を借りずに自分だけで情報収集や創作をする文化も想像可能である。だが、実際には、私たちは貨幣を通じて商品交換をするし、言語を通じて意見交換をする。
社会システムとは、たんなる人の集合ではない。システムが、要素と要素の相互作用でないように、社会システムも人と人との相互作用ではない。たんなる因果的相互作用なら、物と物との間にも確認できる。では、社会システムの本質とは何か。
首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が、満18歳のすべての子供に、高齢者介護などを行う一年間の奉仕活動を義務化することを提言している。「情操教育」と称して、若者に搾取労働を強制し、介護事業の担い手不足の問題を解消しようという、いかにも年寄りたちが思い付きそうなアイデアだが、いったんこの制度が定着してしまうと、廃止は容易ではなくなるだろうと予想される。満18歳以下の国民は、こうした擬似徴兵制に当然反対するであろう。しかし彼らには選挙権がない。選挙権を手にしたときには、奉仕活動を終了している。誰かが奉仕活動を廃止するべきだと主張しても、「自分たちは先輩に奉仕する活動をやらされたのに、後輩たちはやらなくても良いなど許せない」という反対が出て、廃止できなくなってしまう。
結婚は交換である。では結婚において何が交換されるのか。何を基準に交換されるのか。恋愛結婚を行う自由市場は、いつ、なぜ生まれたのか。結婚制度は今後どうなるのか。交換としての結婚を社会学的に考えてみよう。
かつてレヴィストロースは、結婚を女の交換と捉えたが、プリミティブな社会では、女の交換である結婚は、物の交換である貿易と密接に関わっている。そして貿易と結婚という平和なコミュニケーションは、略奪と強姦をともなう無法な戦争におけるコミュニケーションを止揚したものである。













