キリスト教による去勢
キリスト教は、ユダヤ教から去勢宗教としての基本的性格を受け継いでいるが、瑣末な戒律がないとか、選民思想しかしがないとか、ユダヤ教とは異なる側面をも持つが、最大の相違点は、イエスという神の子が、処刑されることで、ファルス的存在となることである。キリスト教のこの特殊性は、十字架がキリスト教の象徴となっているところに表れている。
1. なぜ十字架はキリスト教の象徴なのか
十字架がキリスト教の象徴であるということは、常識的に考えると奇妙である。敵対する異教徒の中には、「彼らは、彼らに値するもの(死刑)を拝んでいる」と皮肉る人もいるが、教祖であるイエスを死に追いやった忌まわしい処刑の道具を、キリスト教の象徴として崇拝するということは、考えてみれば不思議なことである。
ちなみに、イスラム教のシンボルは三日月だが、これは、ムハンマドが最初に啓示を受けた時、下弦の月(陰暦で26日か27日)であったことに由来する。キリスト教も、キリストが生まれたときとか、キリストが最初に布教したときを連想させる記号をシンボルにすれば、常識的にわかりやすいのに、なぜ処刑を連想させる記号を象徴に使うのか。
実際のところ、イエスが磔にされた処刑台は、T字型の十字架で、十字型の十字架ではなかったのだから、「イエスが十字型の十字架で死んだから、十字架はキリスト教の象徴になった」という説明は成り立たず、むしろ逆に、「十字架がキリスト教の象徴になったから、イエスは十字型の十字架で死んだという伝説が生まれた」という方が真相に近い。
では、なぜ十字架が、キリスト教の象徴になったのか、改めて問わなければならない。そして、この問いに答えることで、キリスト教が、去勢宗教であることが明らかになる。
2. コンスタンティヌスはなぜ公認したのか
十字架がキリスト教の視覚的象徴になったのは、イエスが死んでから300年ほどたってからである。よく知られているとおり、キリスト教は、ローマ帝国では長らく迫害されていたが、313年にコンスタンティヌス1世(Flavius Valerius Constantinus - 以下、コンスタンティヌスと記す)によって公認され、後に国教にまでなった。十字架が視覚的象徴として認知され始めたのも、『新約聖書』が現在の形で成立したのも、キリスト教の基本的な教義が決まったのもこの頃である。どうやら、コンスタンティヌスに謎を解く手掛かりがありそうだ。
コンスタンティヌスは、ローマ帝国の西方副帝コンスタンティウスの子供で、母親がキリスト教徒ということもあって、もともと歴代皇帝と比べるとキリスト教には寛大だったが、彼自身は、キリスト教徒ではなかった。転機が訪れたのは、西方正帝マクセンティウスとの覇権争いの時だった。それ以前に信じていた宗教から身の破滅を予言され、無神論者になりかけていたコンスタンティヌスは、PとXを組み合わせたモノグラムの夢(一説によると白昼夢)を見て、これを新たな神の啓示と受け取り、そのモノグラムを兵士の盾に描かせたと伝えられている。

このモノグラムは、キリストに相当するギリシャ語クリストス(χριστος)の最初の二文字であるカイとローを組み合わせたもので、キリスト教を象徴する記号だった。ローは、ラテン文字のRに相当するのだが、ギリシャ文字の大文字は、ラテン文字のPと形が同じである。だから、コンスタンティヌスのようなラテン文化圏の人には、キリスト教のモノグラムは、PとXの組み合わせに見えたはずだ。
コンスタンティヌスが夢に見たこの記号が、いかなる願望の隠喩であったかは、精神分析学的に興味のあるテーマである。キリスト教のモノグラムは、ファルス(phallus)あるいはペニス(penis)の頭文字であり、絵文字的には、睾丸の付いたペニスを横から見た形に似ている“P”にバツ印をつけた記号とも解釈できる。コンスタンティヌスにとって、それは去勢を意味する記号だったのではないだろうか。
去勢の記号としてのXは、処刑台としてはラテン語で“crux decussata”と呼ばれていた。“crux”は、拷問用の柱の意味で、“I”字型の単純な柱に受刑者を磔にすることもあり、それは“crux simplex”と呼ばれた。“decussata”は、「切り倒す」という意味の動詞“decutere”の過去分詞形である。だから“crux decussata”は「切り倒された柱」という意味になるのだが、これは、去勢されたペニスという意味にも取れる。
実は、キリスト教は、十字架をシンボルとして採用するまでは、図6のような魚の記号を使っていた。

ローマ帝国では、この魚の記号は、古くから女神の女陰を表す記号として使われていた。たしかに、そういう形にも見える。なぜ、これがキリスト教の記号にもなったのかに関しては諸説があるが、「イエス、キリスト、神の子、救い主」という意味のギリシャ語“Iησοuς Χριστoς Θεοu Υιoς Σωτηρ”の頭文字を集めると、ギリシア語で「魚」を意味する“ΙΧΘΥΣ”になるからだと言う人もいる。キリスト教会は、これには女性性器の意味はないと主張しているが、キリスト教のシンボルが、建前の説明とは別に、絵文字的には、去勢した跡を意味する女陰の記号であったことは興味深い。
コンスタンティヌスが去勢の夢を見たのは、彼が、母のファルスとなって胎内回帰する、つまり死ぬことを拒否し、不退転の決意で戦いに望みたいという願望とともに、ファルスを持った父、すなわち皇帝になりたいという野心を持っていたからであると解釈することができる。この解釈については、後で、詳しく取り上げることにしよう。
その後、コンスタンティヌス軍は、数の上では圧倒的に劣勢だったにもかかわらず、マクセンティウス軍をミルヴィオ橋の戦いで破り、最終的に、コンスタンティヌスは、分裂していたローマ帝国を再統一して、ローマ皇帝となることができた。かくして、コンスタンティヌスは、キリストの神に感謝して、キリスト教を公認し、その後、キリスト教は、帝国内で急速に普及した [Merriam-Webster's Encyclopedia of World Religions, p.270]。
ローマ帝国では、長い間、十字架による磔刑が、死刑の方法として採用されてきたが、コンスタンティヌスは、これを廃し、絞首刑を採用した。ここからも、コンスタンティヌスが十字架に聖なる意味を見出していたことがわかる。328年に、コンスタンティヌスの母ヘレナは、エルサレムで聖十字架を発見し、その後、十字架に対する信仰が始まった。
こうした歴史的経緯を考えるならば、十字架がキリスト教の象徴になった背景には、イエスが十字架で死んだからという以上の理由があるようだ。去勢の記号“X”は、イエスが死んだT字型の十字架と結びついて、十字型の十字架になったと考えられる。キリスト教を、人類史の男根期に現れた去勢コンプレックスの宗教と位置付けるならば、なぜ十字架がキリスト教のシンボルとして選ばれることになったのかを理解することができる。
3. 三位一体の記号としての十字架
コンスタンティヌスは、325年にニケア公会議を開き、父なる神と子なるイエスと聖霊は全く異なるとするアリウス派を異端として追放し、三位一体の教義を確立した皇帝としても知られている。三位一体とは、神にして人という両義性を帯びたイエスが、神と人の媒介となり、そしてイエスが処刑される、つまり媒介が消去(去勢)されることで、神と人とが一体となる(聖霊降臨)という教義である。
私は、『縦横無尽の知的冒険』で次のように三位一体を説明した。
弁証法的論理学とは、プロセスの論理学である。例えば、ある子供が「パンダ」という言葉を覚えるプロセスをたどってみよう。動物園で子供にパンダを見せて、「ほら、あれがパンダだよ」と言っても、その子供がパンダの本質を理解するとは限らない。子供が最初に見たパンダは、たまたま昼寝中で動いていないかもしれないし、たまたま痩せているかもしれない。その結果、その子供は、おにぎりを指差して「パンダ!」と言うかもしれないし、白と黒のぶち犬を見て「パンダ!」と叫ぶかもしれない。
イエス・キリストが布教活動をした時にも、人々はキリスト教を正しく理解しなかった。イエスのもとに集まった人たちは、彼が、病気を治したり、水をぶどう酒にしたりといった奇蹟により、自分たちの世俗的な欲望を満たしてくれることをもっぱら期待した。人々は、イエスの教えの本質を理解しなかったのだ。イエスが、十字架での処刑で、受肉した特殊な存在様態を抹殺して初めて、人々はキリスト教の本質を理解した、つまり聖霊という普遍が個々の人々の魂に降臨した。
同様に、子供がパンダの本質を理解するには、つまり、おにぎりやぶち犬をパンダと誤解しないようにするためには、最初に見たパンダから非本質的な特殊性を抹殺しなければならない。この特殊の抹殺を通して初めて、全パンダの個体にパンダの普遍的本質が降臨する。
カトリックでもギリシャ正教でも、キリスト教徒は、よく指を使って十字を描くが、その際、指は親指・人差し指・中指の三指を伸ばし、他の二本を折り曲げることで、三位一体を表す。このことは、十字を描くことと三位一体の教義には密接な関係があることを示している。
十字を描く時、手を、まず上から下へ、次に、カトリックでは左から右へ、ギリシャ正教では右から左へと動かす。どちらの場合でも、上から下に引かれる線は、天上の神と地上の信者を結び付ける媒介的な線、つまりイエスを表し、それに横線を引くことは、イエスの抹殺を表す。キリスト教徒は、十字を切ることで、イエスというファルス的存在を去勢するキリスト教の原点を反復し、神と人との一体を確認している。
4. いつから十字架の死が重要になったのか
十字架での死を、避けるべき不幸としてではなく、キリストが初めから計画していた、キリスト教の本質を成す出来事と解釈したのは、パウロが最初である。私は、十字架がキリスト教の視覚的象徴になったきっかけとして、コンスタンティヌスの体験を重視したが、その前に、パウロが十字架を重視する解釈をしていたことが忘れられてはならない。
パウロは、ユダヤ教やギリシャ哲学とキリスト教との違いをこう説明する。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
ユダヤ人は、奇跡を求め、ギリシャ人は、真理を求める。これに対して、パウロは、そうした欲望に×を付け、否定する。だから、十字架とは去勢の記号なのである。
もちろん、ユダヤ教も父権的宗教であり、去勢の宗教なのだが、キリスト教の去勢は、仏教の無の思想に近い。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
パウロが説く十字架の逆説は、仏陀の解脱の考えに近いのではないだろうか。欲望を力で満たすのではなく、欲望を断念し、自発的に去勢することは、弱さではあるが、その弱さこそ、真の強さである。キリスト教の去勢は、仏教ほど自発的でないし、神を想定しているという点で、無の思想というよりも有の思想であるが、両者は、去勢の宗教という点で父権宗教の性質を共有している。仏教については、また第三節で取り上げることにして、去勢とは何かについて、もう少し詳しく論じよう。
5. 去勢がファルス崇拝をもたらす
去勢とは、ラカンの用語を使うなら、想像的ファルスの象徴的欠如である。子供は、母にファルスが欠如していることに気が付き、母の想像上のファルスとなることで母の欲望を満たすことを欲望する。他方で、ペニス羨望を持つ母も、子供をそうした想像的ファルスとして所有することを欲望する。
この母子相姦関係は、鏡像的段階のナルシシズムの延長上にある。
近親相姦、ナルシシズム、母親の男根(ファルス)であることは、もしそれが実現すれば、そこでそっくりすべての欲望が終末に達し、何も欲望せず、何も他者に訴えず、そもそも言葉を使う必要がなくなることを意味する。これは人間にとっての一種の死である(ナルシス神話、鏡像段階の袋小路)。したがって、母親と子供の死の抱擁を妨げ、この想像的融合を断ち切る作用をするものが父の名なのである
父の名(Nom du Pêre)とは、父から発せられる否(Non du Pêre)でもあり、想像的ファルスによる母子相姦を禁止する。去勢といっても、文字通り息子のペニスを切り取るわけではない。想像的ファルスが象徴的に欠如するだけである。欠如(する)を意味する英語の“want”が同時に欲望(する)という意味を持つことからわかるように、去勢によって作られる欠如が、欠如を埋めようとする欲望を可能にする。
欲望は常に欠如に向けられており、欠如を埋める相手を求めている。だから、性感帯は、身体の縁にある[Jacques Lacan:Ecrits tome 2, p.298;Ecrits, pp.817-818]。性交において互いに触れ合うペニスと膣、キスにおいて互いに触れ合う唇や舌、授乳において互いに触れ合う乳首と乳児の口唇、排泄において触れ合う肛門と糞あるいは尿道と尿、視線が出入りする瞼の裂け目、声が出入りする耳たぶや口、これら性感帯に当たる身体の縁は、自分の身体に属すると同時に属さない両義的な性格を帯びる。
社会システムの境界に侵入する両義的存在者が、センセーションを巻き起こすように、身体システムの境界に侵入する両義的存在者は、エロティシズムを惹き起こすが、社会システムの秩序の体現者が、境界上の両義的存在者をスケープゴートとして排除するように、父は去勢により性的享楽を禁止する。
イエスも、いろいろな意味で、境界上の両義的存在者だった。神であると同時に人でもあり、ユダヤ教徒であると同時にユダヤ教徒ではなく、ローマ帝国の内部に存在すると同時に外部に存在した。その両義性ゆえに、スケープゴートとして、屠られることになる。キリスト教徒たちは、イエスを失うという去勢体験を経て初めて、イエスが自分たちのファルスであることに気が付いた。
去勢によってぽっかり空いた穴を、ラカンは対象aと名付ける。対象aは、欠如を埋めようとする欲動を惹き起こす。人々は、イエスの亡骸がなくなったことに気がつくと、聖十字架、聖釘、聖槍、聖杯、聖顔布、聖骸布といったイエスの欠如の痕跡を残す聖遺物を、対象aとして、追い求めた。特にヒトラーは、聖槍を手に入れれば世界を征服できるということで、ペニスと形状が似ているその聖遺物を渇望した。
6. なぜコンスタンティヌスは去勢の夢を見たのか
話をコンスタンティヌスに戻し、なぜ彼がが去勢の夢ないし白昼夢を見たのかを考えよう。フロイトによれば、人が夢を見るのは、願望を充足しようとするためである。同じことは白昼夢についても言える。
これらの空想の内容は、非常にはっきりした動機付けによって支配される。白昼夢は、その人の利己的な野心と権力の欲求やエロティックな願望を満足させる情景や出来事なのだ。若い男では、たいがい野心的な空想が、恋の成就に野心をかけている女たちではエロティックな空想が抜きん出ている。しかし、男においてもしばしばエロティックな欲望が背景にはっきり現れる。すべての英雄的な行動と成功も、もっぱら女性たちの賞賛と好意を得ることを目指している。
男の場合、権力欲も性欲も男性ホルモンであるテストステロンの成せる業である。コンスタンティヌスは、権力への強い欲望を持っていたが、それは、女性にもてたいという欲望と同じであり、したがって、権力は、女性たちの欲望の対象であるペニスによって象徴される。当時、彼の軍は劣勢で、彼の野望は否定されようとしていた。それが、ペニスであるところのPにX(バツ)が付けられていた理由である。
ファルスは、去勢されることで、かえって欲望の対象になる。結局、コンスタンティヌスは、ローマ皇帝という象徴的ファルスとなることができたわけだが、それと同時に、イエス・キリストも真に普遍的なファルスとなることができた。
7. スケープゴートからファルスへの反転
去勢されたファルスは、去勢されたことで無になるわけだが、それは、たんなる無であってはならず、普遍的な無でなければならない。去勢されたファルスは、ラカンのマテームでは、大文字の他者A(例えば、子供にとっての母)における欠如のシニフィアンSとして、S(A)と記される。ラカン研究者のリチャードソンとマラーは
S(
A)は、数学の集合論における空集合、つまり一つも要素を含まない集合である
と言うが、これはどう解釈したらよいだろうか。
空集合は、{0}ではなくて、{φ}と記される。“0”は、ぽっかりと開いた穴の形をしていて、空を表すが、“1”や“2”と同様に、要素の一つとして扱われるので、{0}は空集合ではない。空集合であるためには、“0”から、数字としての特殊性を抹殺しなければならない。斜線は、その抹殺を意味する記号であると解釈できる。この空集合を表す記号は、ファルスのギリシャ語(φαλλος)の頭文字と同じである [姉歯一彦:優しい類人猿小出 浩之,ラカンと臨床問題, p.212]。イエスもまた、処刑されることで、肉的存在という特殊性を抹殺して、ファルスとして普遍的な存在となった。
8. 十字架が登場する竜宮伝説
キリスト教が普及するにつれて、かつては神聖だった地下の世界は、恐怖に満ちた地獄へと、トーテムとして崇拝された動物は、人間以下の野蛮な存在へと、地母神メデューサは、見たものを石に変える恐ろしい怪物へと、豊穣の神だったドラゴンは、悪魔的な堕天使へと、薬草の知識で尊敬された女呪医は、火炙りにするべき魔女へと貶められていった。
竜宮伝説も、キリスト教の影響を受けて、変容する。イギリスには、「妖精と踊った若者」と呼ばれる次のような話がある。
マギリヴレーの一家が、妖精が住むグレナヴォンの森に引っ越した。ある晩のこと、マギリヴレーの二人の息子、ドナルドとロリーが、迷子の羊を探していた。すると、妖精の塚から明かりが漏れ、美しいダンス音楽が聞こえてきた。弟のロリーは、踊りまわる妖精の渦の中に入り込んでしまい、兄が弟に「帰ろう」と呼びかけても、ロリーは聞く耳を持たず、ドナルドはやむをえず一人で帰った。
それから、ロリーを連れ戻すためにあらゆる手段が試みられたが、全て失敗した。ある物知りが、いなくなってから一年と一日後に、服の中にナナカマドで作った十字架を入れて、妖精の住処に入り、神の名においてロリーに戻るように命じ、もし自発的に戻らないなら、捕まえて引きずり出しなさいと助言した。ドナルドは、言われるとおりにして、ロリーを取り戻した。ロリーは、ほんの三十分踊ったつもりだったが、両親の元に帰ってみると、一年も経っていた。
この竜宮伝説で失われたのは、1年だけであり、他の竜宮伝説と比べれば、被害の規模が小さい。妖精のダンスは、さながら魔女のサバトのように描かれているが、そこからロリーを救ったのは、十字架と<神の名=父の名>である。去勢の記号と「父から発せられる否」が、妖精の塚として描かれている地母神の子宮への彼の後退を食い止めたのである。








