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なぜ竜がいないのに竜宮なのか

前節では、かつて、あの世が水中・地下・島・対岸など、地母神の子宮を象徴する場所に存在したこと、そしてその子宮に入るための橋であるペニスが、蛇として観念されていたことを確かめた。読者の中には、竜宮伝説には蛇は登場しないではないかといぶかしむ人もいるかもしれない。たしかに、蛇は登場しない。しかし、蛇に相当する動物が、代替として登場する。その代表が竜である。

1. 竜とは何か

中国における竜(龍)、ヨーロッパにおけるドラゴンの語源は何だろうか。ドラゴンは、蛇を意味するギリシャ語、ドラコーンに由来する。竜の甲骨文字は、蛇の原字の頭に辛字形の冠飾を付けた形となっいる。だから、蛇をモデルにした動物である。

しかし、竜やドラゴンは、たんなる蛇ではない。それは、たしかに、爬虫類のような鱗を持ち、胴体は蛇のように長いが、他方で、空を飛ぶ。西洋のドラゴンなどは、鳥のように翼を持つ。ここからわかるように、竜とは、蛇と鳥という二大トーテムを合成した空想上の動物である。アメリカ大陸では、ケツアルコアトルという、羽のはえた蛇が崇拝されていたが、あれも一種の竜だと考えてよい。

中国では、鳳凰が、龍と並んで崇拝されているが、鳳凰も竜と同様に合成獣である。龍が部分的に鳥の蛇であるのに対して、鳳は部分的に蛇の鳥である。中国の龍には、角が生えているが、これは、中国の伝承によれば、雄鶏の角を盗んだものだということになっている。鳳凰は、首の部分が蛇であるとされている。

2. 日本の空崇拝は海崇拝である

蛇信仰が純粋な地母神崇拝に基づくのに対して、竜信仰は、母権宗教から父権宗教への移行期に現れる。日本神話は、そうした移行期のコスモロジーに基づいて作られている。国つ神に対する天つ神の優位は、日本文化が父権的であることを示しているように見えるかもしれないが、実は、そうではない。日本文化には今日に至るまで、縄文時代の母権的価値観が色濃く残っている。

例えば、アマテラスは、太陽神のはずなのに、女であり、高天原にいるはずなのに、鎌倉時代に書かれた『通海参詣記』では、蛇だったということになっている。このことは、縄文時代に地母神に仕えていたシャーマン、蛇巫が、弥生時代には太陽神に仕える日巫女(ひみこ)となり、それが後に太陽神と同一視されるようになったからだと推測できる [永井 俊哉:縦横無尽の知的冒険, p.173-183]。

蛇をトーテムとする縄文文化は、弥生時代になって衰えたが、蛇憑きは、最近まで中国地方や四国地方に残っていた。『古事記』は、ヒナガヒメの正体を蛇としているが、これも蛇を地母神とする古い観念の残存であろう。

『記紀』が成立するころには、海崇拝よりも空崇拝の方が強くなった。しかし、日本は、父権宗教のように、地下や海を悪魔の領域とはせずに、空を海の一種とすることで、海崇拝から空崇拝へとスムーズに移行することができた。そのことは、太陽船という観念にみてとることができる。

船がその上に太陽をのせて陸地をめざして訪れるという太陽船の信仰は、東南アジアにひろくみられる信仰であり、そしてまたそれは日本でも古墳時代にはあきらかに信じられていました。そのことは、古墳の壁画にそのような太陽をのせた船、つまり太陽船が描かれていることでわかります。

[筑紫 申真:アマテラスの誕生, p.205]

太陽船という観念は、古代エジプトにも存在した。青い空をよぎる太陽は、青い海をよぎって航行する船に乗っているかのようである。

過渡的な地母神崇拝の時代においては、空は第二の海であり、しばしば地母神の胎内と同一視された。このことを、高天原の語源分析で示そう。「たかまがはら」は、タカ+アマ+ハラの三つの言葉から成り立っている。このうち、“Ama”は、シュメール語や中国広東語 で「母」を意味し、日本語の「あま(尼・天)」は、そこに由来している。タカを「高貴な」、アマを「母」、ハラを「腹」と解釈するならば、高天原とは、聖母の母胎のことで、高天原からの天孫の降臨とは、ニニギが、聖母の胎内から産まれ落ちたということになる。これは、母なる海から人間が生まれるという母権時代のモデルを九十度回転させただけである。

3. 天橋立伝説は何を意味するのか

日本神話においては、この世からあの世への通路は、水平方向でも、垂直方向でも、橋として表象される。『丹後国風土記逸文』には、それを示すこんな件がある。

国をお生みになった大神、イザナギノミコトが、天にお通いになろうとして、橋を建立なさった。それで、アマノハシダテといった。神がお休みになっている間に倒れてしまった。

天橋立は、京都府宮津湾にある砂嘴で、日本三景の一つとして知られる景勝地であるが、古代の日本人は、この橋を、天と地を結ぶ橋が倒れたものと表象していた。もっとも、実際の順序は逆で、最初に水平方向の現実の橋があって、次に、垂直方向の橋を想像しているわけで、この実際の順序は、現実的な蛇の信仰から想像的な龍の信仰へという思惟の歴史を反映している。

天橋立の景観は「飛龍観」と呼ばれている。股のぞきをすると、海と空が逆転し、天橋立が、空を飛ぶ龍のように見えるからである。実際に股から覗いたわけではないが、天橋立の写真とそれを天地逆にした写真を掲載したので、それをご覧いただきたい。図4は、空が海で、海が空だと思えば、昇竜の写真のように見えないだろか。

図3 海中の竜としての天橋立 [天橋立 - Wikipedia:南側からの天橋立の眺め(飛龍観) 2005年7月24日 nnh撮影]

図4 空中を飛ぶ竜としての天橋立 [図3を上下逆にしたもの]

天に架かる橋という想像を可能にした自然現象として、虹を挙げることができる。「虹」という漢字は、「蛇」と同様に、「虫」の字が付くが、この「虫」は昆虫という意味ではなくて、本来は、爬虫類の形を模した象形文字である。だから、虹は一種の竜と考えられていたと考えてよい。なお、虹は雄の方で、雌の虹は、霓(本来は、虫偏に兒)と呼ばれていた。甲骨文に「昃(ゆふぐれ)にまた出霓(虫偏に兒)ありて北よりし、河に飮(みづの)めり」とあって、虹が現れるのは、竜が河水を飲みに下る時とされていた[白川静:字通]。

虹は実体のない橋であり、竜のような幻想のモデルにふさわしい。浦島伝説においても、この世と竜宮とをつなぐ橋は、禁忌を犯すことで、虹のようにあっという間に消え、浦島は竜宮に戻ることができなくなってしまった。

4. 天橋立伝説と浦島伝説と羽衣伝説を結ぶ線

ところで、天橋立の話を載せている『丹後国風土記逸文』に、浦島伝説とならんで羽衣伝説が記されているが、これは偶然ではない。羽衣伝説は、中国の七夕伝説の影響を受けたりして、様々なバージョンを生むことになるのだが、典型的には、次のような要素を持つストーリーである。

  1. ある男が、水浴びをしている天女を見つけ、近くに脱ぎ捨ててある羽衣を盗んで隠してしまう。
  2. 羽衣を見つけられない天女は天に帰ることができず、止むを得ず、羽衣を盗んだ男と結婚する。
  3. その後、男の油断により、天女は羽衣を見つけ、天に戻ってしまう。
  4. 男は追いかけるが、天の川の向こうには渡ることができない(七夕的付加)

羽衣伝説は、男が彼岸に行く代わりに女が此岸に来るという点で、竜宮伝説の逆になっている。竜宮伝説では、女が積極的に誘ったのに対して、羽衣伝説では、男が強引に女を引き寄せる。だから、羽衣伝説は、竜宮伝説の続きであると解釈すると、わかりやすい。竜宮伝説が、胎内から出てしまって、戻れなくなる話であるのに対して、羽衣伝説は、胎内に戻ろうとして、失敗する話なのである。

羽衣伝説は、後に、鶴女房という民話になり、それはさらに、木下順二が書いた『夕鶴』という演劇で有名になった。鶴女房のあらすじは、以下のようなものである。

昔、一人暮らしをしている、ある貧乏な若者が鶴を助けてやった。すると、しばらくして、美しい娘が、その若者の家を訪れ、彼の女房になった。彼女は、機織部屋を作ってもらい、「私が部屋を出てくるまで、絶対に中をのぞかないでください」と言って、その部屋で機を織り、美しい布を織った。若者は、その布を売って、金持ちになった。

ところが、ある日、若者は、なぜ女房が、糸もないのに、機を織ることができるのか不思議に思って、機織部屋を覗いてしまった。すると、部屋の中では、鶴が、自分の羽を嘴で抜いて、機を織っていた。女房は、助けた鶴だったのである。彼女は、「あなたに本当の姿を見られては、もうあなたのおそばにはいられません」と言うと、空へ舞い上がって、二度と戻らなかった。

これは、かなり浦島太郎物語に近くはないだろうか。羽衣伝説も、竜宮伝説も、仏教的な因果応報の影響を受けたためなのか、後世には、鶴の恩返しや亀の恩返しといった動物報恩譚が付け加えられた。中を覗くなという禁忌とそれを男が破ることによる別離という点でも、似ている。中国版竜宮伝説である「袋の中の鳥」では、袋を開けると、青い鳥が飛んでいくという場面があったが、青い鳥は、青い服を着ていた乙女のことだから、その点では、夕鶴に似ている。

鶴女房の話では、羽衣伝説の天女が鶴という鳥になった。なぜ鶴が選ばれたのだろうか。私は、鶴が蛇のように長い首を持っているからだと思う。西洋の神話では、天女が白鳥であることが多いが、白鳥の首も、蛇のように長い。これらは、いずれも、中国の鳳凰に相当する鳥だ。七夕の牽牛星(アルタイル)と織女星(ベガ)が、はくちょう座を構成しているのも、偶然ではないのかもしれない。

5. なぜ鶴女房は機を織ったのか

七夕(しちせき)は、日本では「たなばた」と訓ずるが、「たなばた」は、本来「棚機(棚のように見える横板のついた織機)」であったはずだ。日本の鶴女房も中国の織姫も、機を織っていた。アマテラスも記紀では、機を織っている。機を織るということにはどのような意味があるのだろうか。

機を織ることは、女の伝統的な仕事である。フロイトは、女が衣類を編むのは、ペニス羨望ゆえに、擬似ペニスを作りたがっているからだと説明している。しかし衣類はペニスの形をしていない。むしろ糸をペニスと見立て、織物を母体とするならば、機織機で、糸が織物へと織り込まれていくさまは、川が海に注ぎ込む様子と似ている。

しかしながら、機織姫伝説では、視覚的象徴よりも聴覚的象徴のほうが重要である。鶴女房が機を織る姿を見ることができなくても機を織る音は聞こえていた。また、これとは別に、日本各地に、川や池など水の底で機を織る女性の伝説が残っているが、ここでも、姿は見えず、音だけが聞こえる。

では、機を織る音は、何の象徴なのだろうか。私は、それは、胎内の音の再現ではないかと考えている。胎内音は海の波打つ音に似ている。そして、波の音の周期と、胎内で聞こえる心臓の鼓動の周期と、機織の音の間隔は、ほとんど同じである。

浦島太郎物語では、機織が出てこないが、これは海の寄せ来る波の音が、胎内回帰願望を掻き立てる背景音として十分効果を発揮しているからである。これに対して、川や池など、それがない所では、機織の音で、代替となる背景音を作らなければならない。

6. 人は胎内振動の再現に共鳴する

胎児は聴覚が十分発達していないので、胎内音を聞くというよりも、むしろそれを振動として感じたはずだ。私たちの意識は、胎内での体験を忘れているが、私たちの無意識は、今でも胎内の生命のリズムに深く共鳴する。クラブでは、人々は、子宮の中のような暗闇の中で、ビートに合わせて体を揺すり、エクスタシーに酔うが、それは胎内にいた時の記憶が甦るからなのだろう。

フロイトが指摘するように、乳幼児は、身体を機械的に揺すられることに性的興奮を感じる。むずかる赤ちゃんも、ゆりかごに入れて揺り動かしてやると、寝つかせることができる。幼児は、ブランコが好きだし、鉄道で揺られることも好きである。そのため、鉄道の運転手になりたがる少年は少なくない。

少年たちは、鉄道での出来事に、尋常ならざる謎めいた関心を向け、空想が活発になる年頃(思春期の少し前)になると、その出来事をこの上ない性的象徴の核にするのが常である。

[フロイト:性欲論三篇Gesammelte Werke Bd.5, p.103]

7. 銀河鉄道999のモチーフは胎内回帰願望である

松本零士の代表作の一つに『銀河鉄道999』という漫画がある。母を殺した機械伯爵に復讐し、永遠の命を手に入れるため、少年・星野鉄郎が、母そっくりの美女メーテルとともに、銀河鉄道に乗って、銀河の彼方へと旅立つという物語である。

この漫画は、彼が18歳の時、九州からSL機関車で上京した時の体験が元になっている。松本は、当時を振り返って、こう言っている。

18歳の時に夜汽車に乗って上京した。ところが、血が騒いでいて、なかなか寝付けない。それで一晩中、列車の中で空想に耽っていたわけです。

がら空きの夜汽車の反対側の窓に、幻のような絶世の美女が前を向いて座っている。そういう姿を想像しながら、いつの日か、そんな場面が入ったマンガを描きたい、アニメを作りたいと思っていた。夢がそこで芽生えていた。メーテルの原型も、その時にでき上がっていたのかも知れません。

ぼくはSLに乗って上京した最後の世代。というのも、上京した明くる年、帰郷のために乗った列車はディーゼルに変わっていたので。でも、だからこそ、志を立ててどこかに向かう時には、どうしてもSLでないと具合が悪いと思ったんですね。実は打ち明け話をすると、このシリーズをはじめる時に「新幹線型ではどうか」という話もあったんですね。でも、私は絶対イヤだと。

窓の向こうに映った美女は、鏡像的他者であり、理想化された母である。ちなみに「メーテル」はギリシャ語で「母」という意味である。少年・星野鉄郎は、もちろん、少年時代の松本である。

松本が興奮して寝ることができなかったのは、彼が汽車に揺られながら胎内回帰の体験をしたからである。胎内で聞く母の心臓の鼓動は蒸気機関車に乗ったときの音とそっくりである。この重厚感あふれるゆっくりとしたテンポの音は、新幹線のせわしい音で代替できない。松本が「絶対イヤ」と言ったのも当然である。

フロイトによれば、汽車に乗って旅に出ることは、死別の象徴である。『銀河鉄道999』のテーマも死別である。この話の根底にあるのは、《機械的なもの=無機的なもの》という死んだ状態への回帰であり、フロイト的に言えば、死への欲動である。

人は母と別れ、母へと戻っていく。銀河鉄道の長く伸びた、ペニスの形をした車体は、胎内回帰のための橋である。それは、また、蛇の形にも似ているが、汽車が空を飛ぶという銀河鉄道999の幻想的なシーンは、竜のイメージを表していると言うことができる。

8. なぜ竜宮なのに亀姫なのか

話を浦島太郎に戻そう。中国の竜宮伝説には竜女が登場するが、浦島伝説では、竜女の代わりに亀姫が出てくる。現代の浦島太郎物語では、亀と乙姫様は別だが、本来は両者は同一である。琉球諸島に伝わる浦島伝説では、水際に漂う長い髪の毛三本を拾って、持ち主である美女に返してやったところ、お返しとして、竜宮に連れて行ってもらうという筋書になっていて、水中にたゆたう女の長い髪の毛が竜をイメージしているが、竜自体は出てこない。

それでも、亀は、竜や蛇や鳥と同様に、ファリック・マザーのシンボルである。股間から子供の顔が出ている妊婦の姿を想像してみてほしい。それは、亀の姿そっくりである。亀の首は、蛇やペニスに似ている。そして、甲羅は、母体に相当し、その箱のような形状は、子宮を象徴する。浦島太郎は、亀に出会い、亀の甲羅である竜宮へと入っていったのである。

女性が子供を産みたがるのは、欠如したペニスの代替物を子供に求めるからである。股間から産まれる子供は、まさに母にとってのファルスである。そして、母から欲望されることを欲望する子供は、自分が母のファルスとなることを想像する。亀は、この母子相姦的な、ファリック・マザー幻想を象徴する格好の動物なのである。

アイルランドの竜宮伝説では、美しい乙女、ニアヴが馬に乗って現れた。女性が馬に跨っている様を想像してみよう。馬の頭は、女性の股間から生えたペニスのように見えないだろうか。オシーン伝説でも、やはりファリック・マザーが動物のメタファーで表されている。

日本の異類女房譚のもう一つの変種として、蛤女房の話がある。貝は子宮を、蛤の二枚貝が作る割れ目は女陰を、そこから出される舌の足はペニスを表す。蛤が出す粘液糸は、「蛤の蜃気楼」と呼ばれている。蜃気楼の「蜃」の字は、オオハマグリのことで、オオハマグリが吐き出す妖気の中には楼閣が見え、それが竜宮伝説につながったと考えることができる。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2006年1月28日|コメント:5個]
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コメント(5)

はじめまして。
いろんな憶測が飛び交いますが。
何故か殿方ばかりが優先された歴史のため。すべて性欲さえも我慢できないので神格化したような気もします。
女性に対する性的犯罪などをみても、殿方の精神面はそのことでかなり左右されるのだなぁと思いました。
女性は実はそのこと自体には大して意義や重要性を持っていません。
ただ、生き延びるために必要だったのです。
守られ、養われるための生存本能ですね。性欲というよりは殿方に気に入られる生存方法として遺伝子に組みこまれたようです。現在も露出の多い女性がふえたのは(日本女性総風俗嬢みたいな格好してますよね。)いろんな情報操作で影響を受けやすいように動かした結果かとおもいます。
卑弥呼のような時代が続いていたら、少し違ったせかいだったかもしれないですね。私は去勢された殿方を募集したいですね。性行為なんて動物でも出来るのに正当化するためにいろいろと定義されたように思います。
そんなのなくても存在する愛もあってよいとおもいます。
大事な友人たちを見つけたくてちょっと水の中の国を探そうと思っていて立ち寄りました。とても興味深い内容でした。

 竜は王様を意味すると聞いたことがあります。よって竜宮=王宮と解釈するのが自然かと思います。

はじめまして・・・TG(トランスジェンダー)を愛するバイセクシャル傾向の自分にとって、この神話や伝説の話は非常に興味をそそられ、また自分の体内感覚として理解できるものでした。女性のペニス願望というのも、とてもよく理解できます。男性と女性はもともとはひとつなのに、いまは別々に分かれてしまっているので、お互いを求め合うというのはよく言われてきたことですが、TGやニューハーフが流行るのは、やはり根源的にひとつであった性に戻りたいという願望なのでしょう。


現代は人類史が思春期に入った時で男女(人間と自然)が対等に付き合う時代になっています。
 私の見方では人類は母なる大地を重点的に大切にする時代が来ていて胎内回帰時代が来ているのだと思います。
 天と大地が対等に重んじられる時代ですけれどどちらかというと大地が大切にされる時代になるような気がします。

それはかなり日本的な考え方です。日本人はもともと胎内回帰志向が強く、かつそれを隠そうとしませんから。

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