倫理学的分析論
カントの倫理学の理念は自由であり、その理念は、定言命法の遵守により実現する。では、定言命法はいかなる道徳法則なのか。実践理性のカテゴリー表を分析しながら考えよう。
カントによれば<純粋実践理性の原則=定言命法>は一つしかないはずだが、実際には五つ以上の定式がある。同様に純粋実践理性の対象の概念も一つで、それは「自由」なのだが、自由のカテゴリーも、例によって4×3=12個に下位区分されている [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.66] 。
| カテゴリー | 判断 |
|---|---|
| 量 | (1) 格率にしたがった主観的な個人の意思 |
| (2) 原理にしたがった客観的な指令 | |
| (3) アプリオリに客観的かつ主観的な自由の原理=法則 | |
| 質 | (1) 作為の実践的規則 |
| (2) 不作為の実践的規則 | |
| (3) 例外の実践的規則 | |
| 関係 | (1) 人格性に向けられた自由 |
| (2) 人格の状態に向けられた自由 | |
| (3) ある人格から他の人格に相互的に向けられた自由 | |
| 様相 | (1) 許可と不許可 |
| (2) 義務と反義務 | |
| (3) 完全義務と不完全義務 |
カントは「この表はそれ自体で十分自明であるので、私はここでこれの解明に何も付け加えない」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.67] と言って、一切の解説を省略しているが、それだけに我々の方でこの必ずしも「それ自体で十分自明である」とは言えないカテゴリー表の解釈に苦労しなければならない。以下、本節では、
- 質のカテゴリー
- 関係のカテゴリー
- 量のカテゴリー
- 様相のカテゴリー
の順番に実践理性について考察を加えていくことにする。
1. 質のカテゴリー
第一章の超越論的演繹では、感覚的な要素命題の成立/不成立に関する質のカテゴリーから出発したが、ここでも感覚的な快/不快ないし欲求の正/反から始めることにしよう。
カントは、経験的な指令は「実践的規則[eine praktische Regel]と称せても、しかし決して道徳法則[ein moralisches Gesetz]とは称せない」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.389] と言うが、ここの用語法から明らかなように質のカテゴリーに謂う「実践的規則」には未だ道徳的意味はなく、量のカテゴリーで言えば(1)の主観的な格率に相当する。それゆえ質のカテゴリーは、(1)「 … したい/することにしている」(2)「 … したくない/しないことにしている」という述語形式を持つ。(3)の規則は、(1)の肯定的規則と(2)の否定的規則の総合で、例えば「私は金に困ったときには嘘の約束をしてでも他人から金を借りることにしているが、但しその嘘がばれそうにない限りにおいてだが、しかし明日の食事にも困るような限界状況においては話はまた別なのであって … 」というように《例外条項 but-rule》を含んでいる。このような格率の体系を作るには結合子が必要なので、次に関係のカテゴリーの考察に移行しよう。
2. 関係のカテゴリー
(1)における人格性とは英知的存在者の実体性のことだが、この即自的な段階では、自由は“Ich will = Ich will”としての純粋意志に過ぎない。
因果性のカテゴリー(2)の「人格の状態」は逆に経験的な人間のそのつどのその人の心的状態を意味するので、質のカテゴリーはこのモメントに属する。移い行く快不快の感情や欲求の流れ(偶有性)は、人格性の自己同一的持続性(実体性)を前提する。
実体のカテゴリーが定言的であり、因果性のカテゴリーが仮言的であるのに対して、(3)の相互性のカテゴリーは選言的である。このカテゴリーが主語とする自由は、「ある人格から他の人格に相互的に向けられた自由」、つまり相互主体的自由である。《相互主体性/他者性》が、選言的な《他のようでもありうる》不確定性に基づいているというのは意味深長であるが、この論点については後に詳述したい。
カントの超越論的倫理学は、もちろんこの不確定性を超越しようとするわけだが、1での全称命題への量化や、4での必然的命題への様相化は、自由が個別的特殊性から普遍性へ、あるいは不確定性(偶然性)から確定性(必然性)へ超越することを意味している。
3. 量のカテゴリー
このカテゴリーは「各人が自分の傾向性に基づけている格率、理性的存在者のある類[人類]にとって、傾向性に関して一致するかぎりにおいて妥当する指令、そして最後に傾向性とは無関係に全ての理性的存在者に妥当する法則」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.67] の三つのモメントから成る。
カテゴリー表では、(1)主観的 (2)客観的 (3)主観的かつ客観的というように区別されているが、『純粋理性批判』の判断表での(1)全称的(2)特称的(3)個別的の区別、カテゴリー表での (1)単一性 (2)数多性 (3)全体性という区別との関係性が判然としない。強いて解釈すれば、(1)は単一の主観でのみ妥当する全称的な格率で、(2)は全人類に妥当するという点で客観的ではあるが、人類という特種な類にしか成り立たないという点で、特称的な数多性の限界を持つ。それに対して、(3)は、個別的な理性的存在者の主観全てに客観的に成り立つ全体性を持つ。
カントの定言命法は、もちろん(3)の法則である。客観的であると同時に主観的でもあるというのは、定言命法が実定法とは異なることところであって、カントは、『人倫の形而上学』のなかで、「それに対して外的な立法が可能である法の義務[officia iuris]」 [Kant: Metaphysik der Sitten,S.239] と「それが不可能である徳の義務[officia virtutis/ethica]」[ibid] を区別している。(1)のエゴイスティックな格率は、普遍化不可能であるがゆえに、間主観的に構成/ 承認可能な定言命法へと止揚されるわけだが、しかしカントはホッブスやヘアーの周知の論法で規範を外的に導出するわけではないのである。では定言命法はいかにして規範の超越論的演繹を行うのか。彼の演繹の軌跡は定言命法の定式化の変動の中に読み取ることができるので、次にこれをフォローしていこう。
定言命法は、本来次の唯一つだけである。
それによって格率が普遍的法則に成ることを汝が同時に欲することができるような格率にのみ従って行為せよ。
この法則は要するに「欲しかつ欲しない」ことの禁止の命令であって、その根拠は理論的な矛盾律・同一律に他ならない。それゆえ定言命法が超感性的で、それ自体正当化不可能である以前に不必要である理性の事実であるということは、理論的にみて当然であることはすでに確認した。
だが道徳法則が超感性的であるからといって、道徳的行為までが超感性的であるわけではない。そこで感性的なものに超感性的なものを適用するには『純粋理性批判』に謂う所の“媒介”= 図式がここでも必要であるように思われるが、カントの議論は、そこのところやや微妙である。
「今の[実践的判断力の]場合、法則にしたがう事例の図式が問題ではなく、(もしもこのような言葉がここで適切であるとするならばであるが)、法則それ自身の図式が問題なのである」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.68] 。ある行為の事例はそれを法則(行為規範)へと包摂することによって正当化されるが、この法則はさらに定言命法に包摂されることによって正当化される。カントは、個別的事例を内に含んでいる感性的な諸々の道徳法則と超感性的な定言命法の<媒介項=総体概念>を範型(Typus)と呼ぶ。それは諸規範には正当化の、定言命法には適用の基準を与える「判断力のための法則」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.69] である。『人倫の形而上学の基礎付け』では「範型」の語は見当らないが、「範式 Formel」の語がこれに相当する。
図式と範型の位置を強いて図7に書き込むと、図8のようになる。
この図に示したように、構想力が図式を通して悟性と感性を媒介するのに対して、判断力は範型を通して理性と悟性を媒介する。但しこの図8は、拙著では最終的には採用しない。まず理論と実践をパラレルに位置付けようとするならば、図式と範型を区別する必要はない。また図式も範型も言語に相当すると思われるが、カントの哲学においては言語哲学が未成熟である。言語の位置は、次の著作で精確に示す予定である。
範型/範式は三つあるのだが、
(1)第一範式は
汝の行為の格率が、汝の意志によってあたかも普遍的自然法則と成るかのように行為せよ。
というものである。ここで言う「自然」は物理的自然ではなく(いかに悪徳に満ちた自然でも、それが物理的現象として実現されている以上は、普遍的“自然”法則に従っている)、「自然法」等に謂う理念的な意味での自然である。『実践理性批判』では「汝の意図する行為が、汝自身がその一部であるような自然の法則に従って生起するであろうとき、果たしてよく汝はその行為を汝の意志によって可能なものと見なしうるかどうか自問せよ」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.69] が範型とされているが、ここから明らかなように、カントの言う「自然」には<人間的自然=人間本性>も含まれているのである。最初の定言命法の中にある《欲することができる wollen können》という表現に注意したい。悪徳に満ちた社会は、たとえ現実には可能でも、人間本性という点を考えるならば、それを意志することはできないのである。
英米系の倫理学者は「義務論 deontology」vs.「目的論 teleology」という対立地平の中で、カントを典型的な義務論者の内に数え入れている<f>が、カントの倫理学はむしろ目的論的義務論=義務論的目的論とでもいうべき立場である。彼は現に次のように明言している。
私はまた実践理性の概念にあるものを目的としなければならず、したがって法論が含むような選択意志の形式的な規定根拠以外になお実質的な規定根拠を、つまり感性的な衝動に由来する目的とは対置されうる目的を持たなければならないということ、このことはそれ自体において義務である目的の概念であろう。… この理由からして倫理学は また純粋実践理性の目的の体系としても定義されうる
<f> 例えばこの区別の提唱者であるフランケナの [Frankena, Ethics,p.30-33] を見よ。同じ英米系の哲学者でもペイトンは目的論的に解釈している [Paton, The Categorical Imperative,Chapter 15] 。
それでもなお我々の目的論的解釈に眉を顰める人がいるであろう。曰く「カント倫理学は快楽と幸福を拒否し、結果を度外視した義務の遵守を命じるプロテスタンティズムの倫理の権化なのであり、かかる目的論的改釈は厳粛で崇高な心情倫理を功利主義的に改竄しようとする俗人の曲解なのであって云々」。だが我々の解釈が功利主義的でないのはヘーゲルの目的論的倫理学が功利主義的でない<t>のと類比的である。カントは幸福を斥けたとか、幸福を斥けることこそ徳であるなどという誤解は、経験的な「幸福からの判断」と超越論的な「幸福についての判断」の混同から生じる。
<t> ヘーゲルの目的論に関しては、[佐藤康邦, ヘーゲルと目的論] を参照。もちろん「理性の狡智」などの 議論が示すように、ヘーゲルの目的論はカントのそれとは異なる のだが、絶対精神と超越論的統覚を重ね合わせれば大まかな構図 は合致してくる。
カントは各人がそれぞれ好き勝手に幸福を求めて行為した結果「神の見えざる手によって」知らない間に合目的的秩序が出来上がるといった意志の他律を否定したまでである。人格の自律はそれ自体では存立しえないのだから、感性的な幸福の整序を媒介にしなければならない。結果においてはともかく、少なくともその意図=目的において誰の幸福にも寄与せず、むしろそれを破壊するような禁欲的な義務の遂行は狂人の振舞に他ならないし、また逆に悪徳行為、例えば泥棒の窃盗行為も、もしそれによって盗まれるものが何ら実質的価値がない(つまり可能的幸福に寄与しない)ものであるならば、彼の行為は悪くないという以前に窃盗行為ですらない<e>。実際「実践理性の全目的としての最高善」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft, S.133] には、道徳だけではなく「幸福もまた要求される」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.110] のである。
<e> [Hartmann: Ethik,S.252] ハルトマンはここからカントは道徳的価値を、たんなる財価値に求めなかったのはよいとしても、他者との関係を含まない自己完結的な行為に限定したとして批判する [Hartmann: Ethik,S.256] が、これは誤解ではないだろうか。
(2) そこでこの第一範式から
汝は汝の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決してたんに手段としてのみ使用しないように行為せよ。
という第二範式が帰結する。自己を目的としようとする利己主義は、人間の自然(本性)である(そしてこのこと自体は命令できない)。この目的のために他人をたんに手段として扱おうとすれば、立場の相互変換可能性から自分を目的として扱いかつ目的として扱わないという矛盾が生じる。
この矛盾を積極的に回避するためには、折衷的な目的の相互譲歩ではなく、自他の目的の体系的な同時実現へと進まなければならない。カントはこの目的の体系的結合を「目的の国 Reich der Zwecke」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.433] と名付ける。この目的の国の究極目的は道徳的主体であるところの人間性(全き人格=合理的自然)であって、人間の幸福ではない。幸福が目的となるのはただ「幸福が義務遂行のための手段を含むから」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.93] なのである。
カントの目的論的倫理学が功利主義ではなく、従ってまたこの“相互に相手を目的とせよ”という定言命法が“自分がされたくないことを他人にするな”という黄金律に由来する処世術とも同じではない [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.430] ことは明らかである。蓋し後者の命法によっ ては、傾向性に反する(1)自分に対する徳の義務(例「死にたくなっても自殺をすべからず」)(2)他人に対する愛の義務(例「孤独が好きでも他人に親切を尽くすべし」)(3)犯罪に対する相互に処罰する義務の根拠が示せないのである。超越論的・哲学的な目的論的倫理学は、経験的・技術的な目的的倫理学(または目的合理的倫理学=功利主義的倫理学)から区別されなければならない。
カントの定言命法は、またたんに「君のその行為を全ての人が一斉にやりだしたとしても、なお可能であるかどうかを自問したまえ」と命じているのでもない。例えば「倹約」は美徳的行為であると一般には考えられているが、もしもすべての人が一斉に倹約をすれば、総需要が、したがって総供給・総収入が減り、各家庭はかえって倹約ができなくなる。そこで倹約は、その格率が普遍的自然法則となることを(意欲することができないどころか)考えることすらできない悪徳的行為であるということになる。だが「消費は美徳なり」はデフレ経済においてのみ成り立つのであって、インフレ経済においては倹約が美徳なのである。カントによれば、倹約の堕落である貪欲や吝薔は「様々な目的のための手段を所有しようとする原則であるが、但しそれを自分のために全く使用しようとせず、かくして快適な生の享受から身を退けるのであって、これは目的という観点からして、自分自身に対する義務に真っ向から反する」 [Kant: Metaphysik der Sitten,S.432f] とのことであるが、要するに倹約/消費のどちらが当為となるかは、合目的性の連関から判断するしかないのである。
もう一つ、カントの私生活から例を取ってみよう。カントは、一生独身だったが、この行為の格率は、カントの意志によって普遍的自然法則と成りうるだろうか。もしすべての人が結婚<g>しなければ人類は滅亡するが、これは意欲することができない。いや、たんに意欲できないだけではない。普遍化は過去にまで及ぶので、「結婚しなくてかまわない」と言っている人の存在(これは結婚の産物である)まで、したがってこの言明までが不可能になってしまう。つまり普遍的自然法則となることを考えることすらできないのである。ゆえにカントの生活は完全義務に違反している。だがカントは、寡婦になった長妹マリーアとその五人の遺児と末妹カタリーナを扶養していた<k>のであるから、子孫扶助の義務を怠ったわけではない。現代の中国やインドなどの人口増加が深刻な社会問題になっている国においては、独身であることは美徳である。目的の体系との適合性においてのみ普遍化可能な規範はその妥当性を得ることができる。
<g> 結婚とは「性を異にする二つの人格が自分たちの性的諸固有性を 生涯にわたって相互に占有するための結合」 [Kant: Metaphysik der Sitten,S.277] であり、これ以外の性的共同体、即ち「ある人間が他の人間の諸生殖器及び性的諸能力について成す相互的使用」[ibid] は違法であ る。したがってカントの前提では結婚がなされなければ子供は全く生まれないはずである。
<k> 弟宛の書簡 [Kant: Briefwechsel 1789-1794,S.503.] を見よ。弟の死後その遺族にも金を送ったようである [Kant: Briefwechsel 1795-,S.869.] 。
ところで、アリストテレスの目的論的倫理学以来、何が究極目的であるのか、いやそもそも究極目的が存在するのかということが問題となってきた。ギーチによれば<g>アリストテレスは、「いかなる行為にもその究極目的がある」という前提から「すべての行為は一つの究極目的を目指して成される」という結論を導出する誤謬を犯しているとのことである。
<g> 「アリストテレスが、“その連続した項が目的-手段関係にある全ての系列には,ある最終項[a last term]がある”から“その連 続した項が目的-手段関係にある全ての系列の最終項[the last term]である何かが存在する”を推論することができると考えて いることは明白である」[Geach, History of fallacy,p.2] 。
だが少なくともカントはこの誤謬から免れている。今、行為H0の目的Z1、Z1の目的Z2、… というように被制約-制約の系列を上昇して行くと、もはやZn+1が存在しないようなZn(最高目的)が、様々な行為与件から出発することによって複数個得られるとする。もし唯一の究極目的というものがあるとすれば、それはこの複数のZnの総体を実現することであろう。カントの超越論的哲学によれば、多様性を統一へともたらすのアプリオリな機能は超越論的統覚である。ゆえに、究極目的は超越論的統覚(倫理学的に言えば、理性的人格)そのものであるということになる<t>。
<t> これと同じ論法で以って最高類概念は実体=主観であると主張できる。我々は以前、カテゴリーと複数の最高類概念はノエシスとノエマの関係にあること確認したが、定言命法と複数の最高目的もこの関係にある。
(3) ここから<道徳法則の立法主体の自律=理性の自己実現>が説かれる。すなわち、定言命法の第三範式:
意志がその格率によって自己自身を同時に普遍的立法者と見なしうるような仕方でのみ行為せよ。
が成立する。そこで定言命法の三つの範式は、(1)理性の (2)理性のための (3)理性による命法と整理できるであろう。
第三範式は、形式的第一範式と実質的第二範式との総合として、つまりヘーゲル流に言えば具体的普遍として、より包括的に「すべての理性的存在者は、自らがその格率によって常に(1)普遍的な(2)目的の国の(3)立法者であるかのように行為しなければならない」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.438 - 数字は引用者の挿入] というように定式化される。かかる自律的行為の命法を自律のために自律的に立法することによって自律的に行為することが、命法の立法主体の自律性なのである。
行為主体が自律的であるのは、あるいはもう少し平たく言って人間が誠実で責任感があるのは、花が赤かったり石が堅かったりするのと同じ意味での実体に対する属性の関係ではない。それはむしろ、超越論的統覚が超越論的客体を「語る」ことによって自らの自己同一性を「示す」のと類比的に、自らの首尾一貫性を「示す」機能概念なのである。
「我意欲するものを意欲する」という空虚で分析的な超越する時間としての欲求能力は、自我を保持しつつ超越的非我(他我の欲求をも含む)の超越へと超越し、自他の目的を<体系的に統合する=超越論的に超越する>ことによって、「我(直接的には)意欲せざるもの を(間接的には)意欲する」という<差異化された同一性=多様性の統一性>として欲求の多様から超越する、すなわち自由たらんとする不自由から自由になる。
3. 様相のカテゴリー
超越論的演繹は以上で完遂されたわけだが、今度はこれを様相のカテゴリーからアプローチしてみよう。カントの表には「対象レヴェルの当為の müssen」と「メタレヴェルの妥当性の müssen」が混同されているので三つのモメンテを二つのレヴェルに分けて整理すると表7のようになる。
| 様相 | 対象レヴェルの当為 | メタレヴェルの妥当性 |
|---|---|---|
| (1) 可能性 |
許容される行為 Ich darf es tun. |
可能的義務 Es mag gueltig sein daß ich es tun muste. |
| (2) 現実性 |
行っている行為 Ich es tue. |
現実的義務 Es ist wirklich geltend daß ich es tun muß. |
| (3) 必然性 |
義務の行為 Ich muß es tun. |
必然的義務 Es ist notwendig Gültig daß ich es tun muß. |
見て明らかなように、ここではメタレヴェルの三区分は、対象レヴェルの(3)に対して行ったわけだが、(1)と(2)に対しても同様のことができるのは言うまでもない。対象レヴェルで義務なのは(3)だけであり、(1)は「許容法則 leges permissivae」[Kant: Abhandlungen nach 1781, S.347] <l> の行為、(2)は義務様相ゼロのたんなる現実の行為である。
<l> これは「命令 leges praeceptivae」と「禁止 leges prohibitivae」の中間にある。
一方メタレヴェルの (1)は、W.D.Ross が謂う《可能的義務 prima facie duty》[Ross, The Right and the Good,p.19ff] で、可能的には妥当であるが、今ここの現実への適用の妥当性に関しては判断が留保されている義務であり、(2)は、現実に妥当しているがその妥当性に関しては判断が留保されている義務である。
カントは、可能性のカテゴリーを対象レヴェルの様相として《許可されたものと許可されないもの das Erlaubte und Unerlaubte》の対概念で示すが、なぜ「 …してもよい tun dürfen/mögen 」の否定は「 …してはいけない nicht tun dürfen」であって、「 …しなくてもよい nicht tun mögen」ではない、つまり「許可の否定」であって「否定の許可」でないのか。 少なくともこの否定関係の採用は、現実性のカテゴリーが(こちらはメタレヴェルの方が採用されているのだが)、《義務と反義務 die Pflicht und das Pflichtwidrige=das Unerlaubte≠die Nichtpflicht》であることと合わないように見える<m>。我々としては、シュッツの提案<s>に従って、「反義務」を「非義務」に修正することにする。
<m> カントは『実践理性批判』の別の箇所 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.11] で様相のカテゴリーを problematisch,assertorisch,apodiktisch に分類しているが、この三者は『人倫の形而上学の基礎付け』 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.415] では、それぞれ二つの 仮言命法と定言命法に割り当てられている。そうすると「熟練の規則」は可能的義務で「幸福のための勧告」は現実的義務で、両者の総合から定言命法が生じる!ということになる。
<s> 同時代人のシュッツは、既にカント宛の書簡のなかで、現実性の カテゴリーを「現実に命ぜられているもの/現実に命ぜられていな いもの」「術語的には」「法則の現存在(義務)/ 法則の非存在 (非義務)」 [Kant: Briefwechsel 1747-1788,S.330] に修正することを提案している。
4. 必然性のカテゴリー
最後に必然性のカテゴリーであるが、これは明らかにメタレヴェルの必然性である。「不完全義務」は「完全義務」とは異なって、「矛盾なしにはその格率を普遍的自然法則として考えることすらできない」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.424] わけではないが、少なくとも「意欲することはできない」[ibid] 義務なのであるから、論理的には偶然でも人間の義務としては必然的なのである。必然的当為としての義務に必然的妥当性を与えること、これが超越論的演繹であったわけである。




