イスラム教による去勢
キリスト教が、母権宗教と大幅に妥協しているのに対して、イスラム教は、厳密な一神教崇拝と偶像崇拝の厳禁を特徴とする純粋な父権宗教である。イスラム教徒が行う断食も去勢宗教という観点から解釈できる。
1. イスラム教も男尊女卑の宗教である
イスラム教は、ユダヤ教・キリスト教の流れをくむ父権宗教であり、男尊女卑的である。例えば、『コーラン』には、次のような件がある。
[4.34]アッラーはもともと男と女との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男のほうが女の上に立つべきもの。
貧乏な孤児だったムハンマドが、裕福になることができたのは、ひとえに雇用主で、かつ後に妻となったハディージャが大金持ちの女社長であったからであるから、ムハンマドのこの発言は皮肉に聞こえる。、だが、『コーラン』は、建前上は、ムハンマドの口を借りて、アッラーが語った言葉ということになっているから、価値観も父権的にならざるをえない。
ムハンマドの時代には、既にアラビアは男尊女卑の社会となっていたが、母権的な宗教はあいかわらず残存し、アッラートとか、マナートとか、ウッザーといったたくさんの女神が拝まれていた。ムハンマドは、その矛盾を次のように指摘する。
[16.57]彼らは、アッラーに娘があるなどと言っている。なんともったいないことだ。自分では好き勝手なもの[男児]を欲しがったりしているくせに。現に、彼らの誰でも、女のお子さんですと言われるとたちまち、さっと顔色を黒くして、胸は恨みに煮えかえり、あまりのいやな知らせに、仲間から身を隠してしまう。さて、屈辱をしのんでこれをこのまま生かしておこうか、それとも土の中に埋めてしまおうか -まったく、なんといういやな考え方をすることか。
当時アラビアは、女児の生き埋めが行われるぐらい男尊女卑的だったのである。父権宗教が広まる下地は既にあった。
2. コーランに描かれている天国と地獄
イスラム教は、他の父権宗教と同様に、信仰心の厚い善人は天国に赴き、そうでない悪人は地獄に落ちると説く。『コーラン』には、天国と地獄についての詳しい記述がたくさんあるので、そのうちの一つを紹介しよう。
第56章「恐ろしい出来事」によると、最後の審判の時、人間は、先頭、右側、左側の三つの組に分かれる。イスラムの信者の中でもっとも立派な人たちは、先頭組に属する。先頭組は次のような最高の楽園に入る。
[56.15]金糸まばゆい臥牀の上に、
[56.16]向かい合わせでゆったりと手足伸ばせば、
[56.17]永遠の若さを受けた(お小姓たち)がお酌に廻る、
[56.18]手に手に高杯、水差し、汲みたての杯ささげて。
[56.19]この(酒は)いくら飲んでも頭が痛んだり、よって性根を失くしたりせぬ。
[56.20]そのうえ果物は好みにまかせ。
[56.21]鳥の肉なぞ望み次第。
[56.22]まなこ涼しい処女妻は、
[56.23]そっと隠れた真珠さながら。
アラブでは「右」は縁起が良い側とされており、イスラム教の信者は、右組に属する。右組も天国に行くことができる。
[56.28]刺なしの潅木と
[56.29]下から上までぎっしり実のなったタルフの木の間に(住んで)、
[56.30]長々と伸びた木陰に、
[56.31]流れてやまぬ水の間に、
[56.32]豊富な果物が
[56.33]絶えることなく、取り放題。
[56.34]一段高い臥牀があって
[56.35]われら[アッラー]が特に新しく創っておいたもの、この女たちは
[56.36]特に作った処女ばかり。
[56.37]愛情こまやかに、年齢も頃合い。
[56.38]右組の連中の相手方となる。
酒のサービスはないけれども、先頭組と同様に、フールと呼ばれる特製処女によるセックス・サービス付きだから、至れり尽くせりのもてなしである。天国観一つ取ってみても、イスラム教が女性信者のことを考えていないことがよくわかる。
アッラーを信じない者は、左組に属し、地獄に落ちる。そこで、彼らは、
[56.42]熱風と熱湯を浴び、
[56.43]黒煙濛々と頭上を覆う、
[56.44]が、(木陰ではないから)涼しくもなく、気持ちよくもない。
[…]
[56.52]ザックームの木の実を喰らい、
[56.53]腹がはちきれそうになったところへ、
[56.54]今度はぐらぐら煮えた熱湯を飲まされる。
[56.55]渇き病にとりつかれた駱駝さながらに飲むであろうよ。
[56.56]これが審きの日の彼ら相応のおもてなし。
アラビア語では、天国は「ジャンナ」と呼ばれ、地獄は「ジャハンナム」と呼ばれるが、それぞれどこにあるかは『コーラン』には明記されていない。ただ、「高い高い(天上の)楽園」[69.22] あるいは「大地の底に落ち込ませる」[28.81]といった表現から、ジャンナは天の上にあり、ジャハンナムは地の底にあると考えてよいだろう。
ジャハンナムが地の底にあるということは、イスラム教は地母神の胎内への回帰を否定的に解釈しているということである。
最後の審判の日に、現世で行ってきた善事の重さが秤にかけられる。
[101.8]秤が軽くはねたものには
[101.9]底なしの穴が母となろう。
[101.10]が、さて、底なしの穴とはそも何ぞやとなんで知る。
[101.11]炎々と燃えさかる火(の穴)の謂い。
地獄は、ギリシャ語で「ゲヘナ」と言う。「ゲヘナ」は、アラマイ語(イエス・キリストが使っていた言葉)の「ゲヒンノム」、すなわち「ヒノムの谷」に由来する。ヒノムの谷はエルサレムの南方にあって、かつて、ここでは、自分の子供をモレクやタンムズ に捧げるために焼き殺したと伝えられている。ユダヤ人は、ヒノムの谷を「地獄の口」と呼んでいた。女陰には火のイメージがある。だから、地獄とは、地母神の胎内のことである。
同時に、地母神の女陰が「口」と呼ばれていることに注意しよう。英語の“mouth”(口)は、“mother”(母)と同様に、アングロ・サクソン語の“muth”に由来し、エジプトの女神“Mut”とも関係がある。また、英語の“yawn”(あくびをする)は、中世英語の“yonen”に由来し、その起源は、サンスクリット語の“yoni”(女陰)に遡る。中世の聖職者たちは、女陰を、まるであくびをした時のように大きく開けられた地獄の口に喩えたが、この喩えには、語源的な根拠があったわけだ。<女陰=口=地獄への入り口>という等式を理解していれば、イスラム教徒がなぜラマダーンの月に断食や性的禁欲をするかという謎を解くことができる。
3. イスラム教徒はなぜ断食をするのか
断食(サウム)がイスラーム教徒の義務の一つで あることはよく知られている。但し、断食が義務なのは、ラマダーンの月だけである。ムハンマドは、メッカからメディナに移住した当初、ユダヤ教徒が贖罪の日に行う断食をまねて、アーシューラーの日に断食をしていたが、ユダヤ教徒との関係が悪化すると、アーシューラーの断食は義務ではなくなり、代わりに、ラマダーンの月が義務となった。
なぜラマダーンの月かと言えば、それは、ラマダーンの下弦の月にムハンマドへの神の最初の啓示が始まったからである。したがって、期間はその下弦の月から一月である。ムハンマドは、
汝らラマダーン月の三日月を見たならば断食を行い、次の三日月を見たとき断食を解け
と言っている。
この月には、飲食や性行為が禁止される。断食と言っても、食べたり飲んだ入りしてはいけないのは日中だけであり、日没後は、飲食が許される。許されるのは、それだけではない。
[2.187]断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らはまた彼女らの着物。アッラーは汝らが無理しているのを御承知になって、思い返して、許したもうたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)彼女らと交わるがよい、そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかしその時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ。
食べ放題、飲み放題、セックスやり放題ということであれば、これはまるで、『コーラン』が描く天国での生活のようではないか。してみると、断食とその解禁は、信仰を守ったがゆえに、その御褒美として天国に行けるという一生単位の出来事を、一日単位で繰り返すフラクタルなシミュレーションということになる。
それにしても、なぜ断食することが信仰を守ることになるのか。近代人たちは、欲望をコントロールするためだとか、貧者の気持ちを理解するためだとか、はたまた健康のためだとか、合理主義的な理由を挙げて断食を説明しようとするのだが、私は、むしろ当時の宗教の象徴的意味に準拠して説明を試みたい。
父権宗教が登場する以前から、食べるという行為には、神話的な意味があった。アニメ映画『千と千尋の神隠し』に、千尋の両親が、異界の食べ物を口にしたために、この世に戻れなくなってしまうという場面があるが、黄泉国の竃で煮炊きしたものを日本神話では黄泉戸喫(よもつへぐい)と言い、イザナミがそうであったように、これを食べると黄泉の国から戻れなくなってしまう。
ギリシャ神話では、デメテルとゼウスの娘であるペルセフォネが、黄泉の国でザクロを食べたために、地上の世界に戻れなくなった。この禁忌の起源は、古代メソポタミア神話にまで遡ることができる [小林 登志子:古代メソポタミアの神々, p.92]。
では、なぜあの世の食べ物を口にすると、この世に戻ることができなくなるのか。ここで、<女陰=口=地獄への入り口>という等式を思い出そう。実際のところ、唇と女陰、食道と膣、胃袋と子宮には、解剖学的な類似性がある。食べ物が、口から胃の中に入ると、もう戻ってくることができないように、地母神の女陰であるゲヘナから子宮である地獄に落ちると、そこから戻ってくることができなくなる。
もちろん、胃の中の物を口から吐き出すことはできなくはない。千尋の両親はこの世に戻ることができたし、イザナミも、イザナギの嘆願を受けて、この世に戻るべく神々と相談しようとした。 しかし、それには大きな困難が伴う。
4. 断食の例外はどのように解釈されるか
ラマダーンは祝福された神聖な月である。
ラマダーン月が来ると、天の門は開かれ、地獄の門は鎖され、悪魔は鎖につながれる。
地獄の門、すなわち口と女陰が鎖されているのに、わざわざこちらから開けて入って行ってはいけない。これが意図的に飲食をしたり、性行為をしてはいけない理由である。
では、意図的でない場合はどうか。敬虔なイスラム教徒の中には、唾を飲み込むことすらしない人もいるが、意図せずして何かが、胃袋に入っても、断食を破ったとはみなされない。
また、旅行中は、断食をしなくてもよい。ムハンマドは、駱駝に乗って、東に向かっているときに、
汝ら、夜がこちらから来るのを見たとき、断食中の者は断食を解いてよい
と言ったと伝えられる。こっちから闇の中に入って行ってはいけないが、闇が向こうから来るのなら、仕方がないということである。
5. 断食は自発的去勢である
以上の解釈から、私は、イスラム教の断食を自発的去勢の儀式と位置付けたい。これは、私の恣意的な解釈ではない。ムハンマド自身が、断食が去勢であると言っている。
結婚は淫らなまなざしを抑え、性欲を鎮める最もよい手段であるが、それができないものは断食せよ。これは彼のための去勢となる。
口に飲食物を入れないことにより、女陰にペニスを入れないことを表し、我が身を地獄の口に入れないようにすること、これが断食の象徴的意味である。夜の快楽は、去勢に対する代償である。
夜に、飲み放題、食べ放題、セックスやり放題では、母権宗教的なオルギーと変わらないのではないかと読者は思うかもしれない。しかし、断食終了後の饗宴にしても、最後の審判終了後の天国での歓楽生活にしても、官能的で快楽主義的であるとはいえ、それは父権を媒介にしている点で、去勢を経ない、後退的な胎内回帰とは明確に区別される。
家庭での話に対応させるならば、父親は、現在のこの家庭における母子相姦を禁止するが、息子が去勢体験を経て独立し、来るべき次の家庭で妻を娶ることは禁止しないし、否むしろ普通は奨励する。この世での禁欲とあの世での享楽は、こうした家庭的モデルに対応している。
ラマダンという特別な宗教的な期間では、この世とあの世の関係が、この世で擬似的に繰り返される。それは、模擬的で、予行演習という色彩が強い。最後の審判を覆すことはできないないので、地獄に落ちた者は永遠に苦しむしかないが、ラマダンで、断食するべき人が断食しなかったとしても、喜捨をすれば、その罪を贖うことができる。断食は、修正がきく信仰の練習のようなものである。




