現象学的に根拠を問う

現象学は、従来にない豊かな可能性を哲学にもたらした。現象学的に根拠を問う時、人は、超越論的主観の存在を自覚する。本書は、第一章でフッサールの現象学的哲学を、第二章ではシェーラーの現象学的倫理学を批判的に検討しつつ、第三章で、現象学的還元・構成・破壊をモデルにした目的論的還元・構成・破壊による、実質的価値倫理学の超越論的基礎付けを試みる。
現象学がブームになった時が二回ある。一回目と二回目ではどう異なるのか、なぜ今日に至るまで現象学は人気があるのか、本書は現象学のどのような側面に注目するのかなどについて述べよう。
前著でカントの超越論的哲学を取り上げたので、本書では、まずカントの超越論的哲学とフッサールの超越論的現象学の異動を確認するところから始め、フッサールの現象学の基礎的構図であるノエシス・ノエマの構造を、全体部分関係論の視点から解釈しよう。
フッサールの超越論的現象学は、カントの超越論的哲学とは異なって、言語と意味についての考察が豊富である。本節では、フッサールの言語哲学を全体部分関係論の観点から分析し、ノエシス・ノエマの構造をより詳細に解明する。
本節では、現象学的還元・地平・キネステーゼ・身体性・間主観性という、現象学的かつ現代的なテーマを取り上げ、能動的構成主義を却けた受動的直観主義が孕む問題点を指摘し、現象学の射程と限界を見定めたい。
フッサールが、経験論的な心理主義とカント的な形式的規範主義を退けて“実質的アプリオリ”の新しい領域を見出したように、シェーラーは、かたや快楽主義/功利主義、かたやカント的な形式主義を退けて実質的価値倫理学を樹立したと一般には言われる。しかしこれがカント批判として正当かどうかという前に、そもそもフッサールはこのようなパラレリテートを、つまり本質直観とパラレルな“価値直観”を認めえたかどうかが問題となる。
本節では、シェーラーの現象学的倫理学の具体的内容を見ていく。彼の倫理学は、一口で言えばキリスト教倫理学であり、その中身はクリスチャン以外には余り興味あるものとは言えない。彼の才能は、倫理のポジではなくてネガの部分、価値的倒錯に対する生き生きとした現象学的記述の中に見られる。そこでシェーラーの実質的価値倫理学を搦手から攻略していくことにしよう。
本節では、シェーラーの現象学的倫理学の具体的内容を見ていく。彼の倫理学は、一口で言えばキリスト教倫理学であり、その中身はクリスチャン以外には余り興味あるものとは言えない。彼の才能は、倫理のポジではなくてネガの部分、価値的倒錯に対する生き生きとした現象学的記述の中に見られる。そこでシェーラーの実質的価値倫理学を搦手から攻略していくことにしよう。
第三章では、現象学的還元・構成・破壊の手法を倫理学・価値哲学の分野に応用し、これを目的論的還元・構成・破壊と称して、規範と価値の基礎付けを行うことにしたい。本節では、目的論的還元により、価値と規範の根拠が現象学的に問われる。
私たちの究極目的は、個体内的にも個体間的にも一つではない。目的論的還元によって得られた究極的目的はどのように構成されるべきであるのか、欲望の合目的的連関に従いながら、徳福一致の社会を考える。
倫理学という学問が求められるのは、私と他者の価値観が対立する時である。選択行為と行為選択の関係を論じながら、目的論的構成が、間違った選択を破壊するメカニズムを認識することで、主体的な価値と規範の決定の可能性と限界を画定しよう。













