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社会システム論の構図

社会秩序は、いかにして、万人の万人に対する戦いである無秩序から人々を救い出し、社会秩序を可能にするのか。この問題は、社会学の永遠の課題である。本書は、ニーチェ、マルクス、フロイト、ラカン、レヴィ=ストロース、フーコー、バタイユ、ブルデュ、クーンなど、ヘーゲル以降の現代思想の流れを踏まえつつ、社会秩序の問題を、社会システム論の立場から考察する。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

本書『社会システム論の構図』は、これまでの四冊とは違って、哲学よりもむしろ社会学の領域に近い。といっても、実証的な社会学的研究の書ではない。社会学についての私の考えを述べ、本書の構成を概観する。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

交換とはコミュニケーションであって、物の移動は交換にとって本質的ではない。交換を媒介するコミュニケーション・メディアの分類から、認識・結婚・復讐を扱う第一章の構成を説明する。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

認識はいかなる意味で交換なのか。この交換における貨幣と貨幣が代表象する価値は何か。交換によってどのような資本の非平等的な蓄積が進むのか。ブルデュを参考にしながら考えよう。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

結婚は交換であり、コミュニケーションであるが、結婚のコミュニケーション・メディアは資本の犠牲であり、愛は、ルーマンがそう取り違えたように、コミュニケーション・メディアではなくて、資本の犠牲によって伝達される形相である

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:1個]

復讐は苦痛の交換であり、一種のコミュニケーションである。本節は、マルクスの『資本論』の価値形態論・剰余価値学説等を範に仰ぎつつ、交換としての復讐から公的刑罰、さらには国家権力を導出する《復讐の経済学》を試みる。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:6個]

権威に対する私たちの感情は、憧れと反発の複合物(コンプレックス)である。権威は、反発の対象である限り、いまだ真の権力ではない。本書の第二章では、疎外された権力である父、君主、神を扱う。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

権威に対する私たちの感情は、憧れと反発の複合物(コンプレックス)である。権威は、反発の対象である限り、いまだ真の権力ではない。本書の第二章では、疎外された権力である父、君主、神を扱う。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:4個]

ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、疎外された労働者の解放を夢想していたマルクスを感動させ、鏡像段階論を展開したラカンにもインスピレーションを与えた。主人と奴隷の弁証法は、どのような構造を持っているのか考えてみよう。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

ニーチェは、父なる神を殺した。その意味で、ニーチェには、エディプス・コンプレックスがあったと言ってよい。父・君主・神は、「呪われた部分」である限り、打倒すべき権威という疎外態である。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

フランシス・ベーコンは「知は力なり」と言ったが、知は、たんに道具として支配に役立つだけではない。知ることと支配することは、構造的に同じなのである。この章では、知としての権力を考える。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

本節では、正当化と服従という、一見すると正反対に見える、しかし実は同じである、包摂の二つの側面を扱い、結論として、正当化=服従における「包摂する=される主体」の問題を考察する。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

前節では、正当化を本質とする学問的営為も、服従したり服従させたりすることを本質とする政治的な権力闘争と変わらないということを示した。本節では、このことをクーンのパラダイム論に即して考えてみよう。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]

これまでの二つの節から得た帰結は、《真理》と《権力》の根源的同一性であった。この現代の権力論のパラダイムとなりつつあるテーゼを打ち出したのが、ミシェエル・フーコーである。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月16日|コメント:0個]
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