浦島伝説の謎を解く

浦島伝説には不可解な謎がある。なぜ竜宮は水の中にあるのか、なぜ竜が登場しないのに竜宮なのか、なぜ玉手箱を開けると年を取るのか。これらの謎を解明しながら、個人史的にも人類史的にも忘れ去られら太古の記憶を甦らせ、さらに、なぜこの記憶が抑圧され、忘れ去られるようになったのか、個体発生的かつ系統発生的にそのフラクタルなプロセスを明らかにする。
浦島伝説と類似の民話は、世界に広く見られる。このことは、浦島伝説には、人類に普遍的な何かがあるということを意味しないだろうか。浦島伝説の問題の所在を確認しよう。
キリスト教やイスラム教や仏教などの世界宗教においては、天国や極楽浄土といった理想的異界は、天の上あるいは天の彼方にあると信じられている。しかし、浦島伝説では、理想的異界は海の中にある。どちらの異界観のほうが古いのだろうか。
前節では、かつて、あの世が水中・地下・島・対岸など、地母神の子宮を象徴する場所に存在したこと、そしてその子宮に入るための橋であるペニスが、蛇として観念されていたことを確かめた。読者の中には、竜宮伝説には蛇は登場しないではないかといぶかしむ人もいるかもしれない。たしかに、蛇は登場しない。しかし、蛇に相当する動物が、代替として登場する。その代表が竜である。
浦島太郎が、竜宮から故郷に帰ると、三百余年が経過していた。他の竜宮伝説でも、竜宮では時間の経過が異常に速いと語られることが多い。なぜ、竜宮では、時間が経つのが速いのか。竜宮から出て年をとることは何を意味しているのか。
子供が成長するにつれ、関心が母から父へと移っていくように、人類もまた、文明時代になると、地母神に代わって天父神を崇拝するようになる。かつて地下や海にあった理想郷としての地母神の子宮は、地獄へと貶められ、理想郷は、天国に求められるようになる。母なるものへのノスタルジックな思いは、抑圧され、忘れ去られていく。このため、今では、竜宮伝説の解釈は難しくなっているわけだ。この章では、その抑圧と忘却のプロセスを歴史的に確認する。
キリスト教は、ユダヤ教から去勢宗教としての基本的性格を受け継いでいるが、瑣末な戒律がないとか、選民思想しかしがないとか、ユダヤ教とは異なる側面をも持つが、最大の相違点は、イエスという神の子が、処刑されることで、ファルス的存在となることである。キリスト教のこの特殊性は、十字架がキリスト教の象徴となっているところに表れている。
キリスト教が、母権宗教と大幅に妥協しているのに対して、イスラム教は、厳密な一神教崇拝と偶像崇拝の厳禁を特徴とする純粋な父権宗教である。イスラム教徒が行う断食も去勢宗教という観点から解釈できる。
仏教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の系譜には属さないし、神の存在を想定していないから、宗教といえるかどうかも怪しい。それにもかかわらず、仏教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同様に、去勢宗教としての性格を持っている。
本書は、個体発生は系統発生を繰り返すという生物学の仮説を前提に書かれている。この仮説を反復説というのだが、この反復説に基づいて、本書の結論をまとめる前に、この仮説の妥当性について、あらかじめ論じなければならない。
本書の浦島伝説解釈は、フロイトの象徴解釈に負うところが多い。だから、反復説に基づいて、去勢の歴史を再構築する前に、まずフロイトの反復説の検討から始めなければいけない。
本節では、フロイトが、リビドーの発展段階として画期した、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズが、個人史的・人類史的にどういう時代に相当するのかをフォローしながら、私なりに反復説を再構成し、本書が何を目指していたのかを明らかにしたい。
浦島太郎の話は、日本のおとぎ話の分野では、桃太郎の話とともに人気があり、有名である。二人の太郎の話は、しかしながら、対照的である。本書を書き終えるにあたって、桃太郎の物語との違いを通して、浦島太郎の物語の性格を明らかにしたい。




