新約聖書
イエス・キリストは、なぜスケープゴートとして屠られなければならないのか。なぜ十字架は、キリスト教徒にとって、忌まわしい思い出ではなく、信仰の象徴たりうるのか。イエスの復活はどのように成されたのか。『新約聖書』を読みながら考えよう。
1. スケープゴートとしてのイエス
『旧約聖書』も『新約聖書』も、生贄を屠って捧げることで、父なる神を崇拝するという点で同じである。違いは、前者においては、地上の人間が天の神のために生贄を屠ったのに対して、後者においては、天の神が地上に降りてきて、人間のために生贄として屠られたというところにある。
イエス・キリストは、父なる神からこの地上へと遣わされたと言っている。
あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
父なる神と同様に、イエス・キリストは、穢れを排除するカタルシスを勧める。
もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
それでいて、イエスは、罪によって自分の身を汚そうとする。イエスは、罪人として裁かれることになる以前から、積極的に罪人、ないし道徳的に罪深い人々と積極的に接触した。穢れた人々を、「えぐり出して/切り取って捨てて」しまわずに、むしろ彼ら/彼女たちと交わることで、自らを(ユダヤ教徒から見て)穢れた存在にした。
ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
『マタイによる福音書』では、このような言葉が付け加えられている。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。
ヤハゥエは、イスラエルの民に生贄を要求したが、イエスは要求しない。なぜならば、イエス本人が生贄になろうとしていたのだからである。パウロは、イエス・キリストのことを「過越の小羊」と呼んでいる。
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
過ぎ越しの食事においては、屠られた子羊とともにパン種無しのパンが食べられた。「パン種」は、邪悪な、否定的影響力の比喩であり、これを取り除くことは、カタルシスになる。人間のすべての罪を一身に引き受け、十字架で死ぬことで、イエスは、人間の世にカタルシスをもたらした。
イエスは、自分をパンに喩えたこともある。カファルナウムの会堂で、イエスはこう語った。
はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。
十字架で処刑される前の最後の晩餐で、イエスは自分の肉としてパンを、自分の血として葡萄酒を弟子たちにふるまう。これがミサにおける聖体拝領の始まりである。生贄は、屠られることで無になるが、そこには、個体性を無にすることで、普遍者となるというスケープゴートの論理がある。
2. 去勢の象徴としての十字架
イエスは、ユダに裏切られる前から、自分の運命を口にしていた。 だから、厳密に言えば、ユダの裏切りは、裏切りではない。むしろ、他の弟子とは異なって、イエスの意図を正しく理解し、その実践に協力した、最も忠実な弟子だったのではないかという解釈すらある。
1700年前の『ユダの福音書』によると、イエス・キリストの弟子ユダがローマの官憲にイエスを引き渡したのは、イエスの言いつけに従ったからである。『ユダの福音書』は、2世紀に異端の禁書として文献に出てくる聖書外典 で、最近その内容が明らかになった。
解読したロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。
13枚のパピルスに古代エジプト語(コプト語)で書かれたユダの福音書は、「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まる。イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。
同文書は3~4世紀に書かれた写本で、1970年代にエジプトで発見され、現在はスイスの古美術財団で管理されている。同協会が資金援助し、カッセル元教授らが5年間かけて修復、内容を分析した。
他の弟子は、イエスの意図を理解できなかった。イエスが、自分は殺された後、復活すると打ち明けたところ、ペトロは、それをいさめようとした。すると、イエスはペトロにこう言った。
サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。
人間としてのキリストは死ぬが、神としては復活する。死なないでくれと嘆願することは、キリストを人間として扱っていることになる。これが「神のことを思わず、人間のことを思っている」の意味である。弟子のペテロをサタンと呼ぶのは、酷なようにも思えるが、洗礼を受けた後に、荒野でサタンから誘惑を受けた時の話とよく似ている。サタンから誘惑されるという話は、仏伝でもおなじみである。
十字架での死を、避けるべき不幸としてではなく、キリストが初めから計画していた、キリスト教の本質を成す出来事と解釈したのは、パウロが最初である。私は、[十字架はなぜキリスト教の象徴なのか]で、十字架がキリスト教の象徴になったきっかけとして、コンスタンティヌスの体験を重視したが、その前に、パウロが十字架を重視する解釈をしていたことが忘れられてはならない。
パウロは、ユダヤ教やギリシャ哲学とキリスト教との違いをこう説明する。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
ユダヤ人は、奇跡を求め、ギリシャ人は、真理を求める。これに対して、パウロは、そうした欲望に×を付け、否定する。だから、十字架とは去勢の記号なのである。
もちろん、ユダヤ教も父権的宗教であり、去勢の宗教なのだが、キリスト教の去勢は、仏教の無の思想に近い。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
パウロが説く十字架の逆説は、仏陀の解脱の考えに近いのではないだろうか。欲望を力で満たすのではなく、欲望を断念し、自発的に去勢することは、弱さではあるが、その弱さこそ、真の強さである。キリスト教の去勢は、仏教ほど自発的でないし、神を想定しているという点で、無の思想というよりも有の思想である。
3. モックキングとしてのイエス
イエスは、メシアを自称し、ローマ帝国に反逆した廉で、十字架の刑に処せられることになった。その時、擬似的に、イエスをユダヤの王にする儀式が行われた。
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
この、処刑される前に、擬似王に仕立て上げられる話は四つの福音書すべてで言及があり、モックキングの代表例として知られている。擬似王(mock-king)は、王でないものが、王のように振舞うことで、人々から嘲笑(mock)される道化師のことである。イエスには、既存の慣習を皮肉ったり、旅芸人のように食事やパーティに出席したりするなど、道化師としての側面がある [山口昌男著作集〈3〉道化] が、道化師であることは、スケープゴートにふさわしい属性である。引用文では、兵士たちは、嘲笑する代わりに、唾を吐きかけているが、どちらも、カタルシスの効果がある。
4. イエスはどのように復活したのか
福音書の原型とも言うべき『マルコによる福音書』では、墓の入り口にあった非常に大きな石が転がされ、近くにいた若者が、復活を告げるという描写しかなく、どのような形で復活したかについての記述はない。
しかし、他の福音書には、イエスが人間の形で復活したと解釈できる記述がある。
イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
『ヨハネによる福音書』では、イエスは、復活後、弟子たちの前に三度現れるが、イエスは昇天についても語っている。
わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と。
仮に、人間の形でイエスが復活したとしても、父のもとへ上っていったとするならば、もはやこの地上にはいないはずである。人の子イエスが、父なる神の子となるためには、そうでなければならない。
他方で、イエスは、子孫を残すことで、復活したという解釈もある。いわゆる聖杯も、イエスの血を受けた杯という意味ではなく、イエスの血を引く子孫と考えるわけである [Michael Baigent:Holy Blood, Holy Grail]。この解釈は、ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』でも採用され、人気を博している。本当に、イエスに子供がいたのかどうかを最後に検討しよう。
5. イエスには子供がいたのか
『新約聖書』には、イエスに子供がいたという証拠を見出すことはできないが、『マルコによる福音書』には、後世の加筆ではあるが、次のような件がある。
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。
これは、イエスが、その子供をマグダラのマリアの母胎から生まれさせることで復活したと読める。『ピリポによる福音書』によれば、マグダラのマリアは、イエスの愛人だった。もちろん、正統派のクリスチャンは、両者の愛人関係を否定するが、四つの福音書は、すべて、イエスの埋葬、復活、顕現の各場面で、マグダラのマリヤの名を筆頭に書いているので、マグダラのマリアは、イエスの復活ともっとも深い関係を持っていると言えそうである。
イエスが女と交わって、孕ませるなどということはありえないと信者なら反発するだろうが、キリスト教が性に対して禁欲的になったのは、アウグスティヌスの頃からであり、イエス自身は、性に関しては比較的寛容であった。後代の加筆であるが、イエスが姦通した女を許す話がある。
律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
いったい、イエスは地面に何を書いたのだろうか。たぶん、姦淫を禁止したモーセの律法に関して述べたこの命題ではなかったのだろうか。
みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
もしも姦淫の定義をここまで拡大するなら、姦淫をしたことのない男は皆無になってしまう。だから、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われて、誰も石を投げることができなかったのではないだろうか。
『ルカによる福音書』では、売春婦を暗示する「罪深い女」の罪を許す話がある。イエスは、不審に思っているファリサイ派の招待者こう言っている。
この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。
この罪深い女、ベタニアのマリアは、後にマグダラのマリアと同一視されるようになる。『ルカによる福音書』では、罪深い女の話のすぐ後に、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」がイエスに付き従ったという話があるのだから、この解釈は自然である。
『ルカによる福音書』は、罪深い女、すなわち売春婦がやった行為を婉曲的に描写しているようにも見える。足は、しばしばペニスの隠喩である。その足を、女が自分の体液で濡らすことが何を意味しているのかは明白ではないだろうか。唐突に登場する「七つの悪霊を追い出す」という表現も、他の男の精液で汚染されていた売春婦の膣を、イエスは自らの精液で清めたと解釈すれば、納得がいく。
多分、実際のイエスは、性的純潔に対して厳しくなかったのだろう。そして、それは、自分自身の出生と関係があるにちがいない。イエスの母、マリアは、処女懐胎したことになっているが、生物学的には、そのようなことは不可能であり、実際には夫(ヨセフ)以外の男に孕まされたに違いない。私生児なのだから、性的純潔にこだわると、自分自身の存在の正当性を否定することになる。
『ルカによる福音書』によれば、ヨセフとマリアが神から将来の救世主である子供を授かるという神からのメッセージを聞いたことになっているが、同じ『ルカによる福音書』には、それと矛盾する記述がある。それは、行方不明のイエスを探していた両親が、神殿の境内で学者たちと議論しているイエスを見つけたときのことである。
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
もしもヨセフとマリアが、イエスか神の子であることを了解しているとするならば、神殿が自分の父の家であるというイエスの言葉を理解したはずである。そうではないということは、マリアが父なる神の精霊を宿して処女出産したという話は、偉人の出生譚によくあることだが、後世の捏造ということになる。実際、福音書の原型である『マルコによる福音書』には、イエスの出生譚はない。イエスは、
預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである
と言っているが、家族がイエスを敬わなかったということは、ヨセフもマリアもイエスが神の子だとは思っていなかったということである。やはり、イエスはマリアの私生児なのだろう。もしも、私生児イエスが、売春婦との間に私生児をもうけたとするならば、まさに「この親にしてこの子あり」ということになる。
Julio Napolitani によると、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』には、イエスとマグダラのマリアとの間の空間に、両者の間に産まれた子供が描かれているとのことである[Julio Napolitani:Anomalous additional figure within da Vinci's "The Last Supper" proves theories of holy blood-line;日本語訳]。
イエスの左に座っているのは、ヨハネだとこれまで思われてきたが、きわめて女性的に描かれており、実際にはマグダラのマリアで、マリアとイエスの間にあるV字型の空間は、マリアの子宮を表し、そこに、子供の絵がうっすらと書かれている。

[A postcard obtained from the Capella de Santa Maria delle Grazie:Da Vinci's Last Supper] より一部を切り取って掲載。
小さな人間が、イエスの方を向き、両手を差し出しているのがお分かりだろうか。この写真にだけ、たまたま子供らしき模様があるのではないかと疑い、別の写真をも探してみた。以下の写真は、Richard Bean が撮影したものである。

[Photos of Italy:The Last Supper by da Vinci] より一部を切り取って掲載
こちらはより不鮮明で分かりにくいが、図1と同様に、人の像を読み取ることができる。

Richard Bean 撮影の『最後の晩餐』(部分)への書き込み
イエスは享年32歳だったと伝えられる。それならば、子供の一人ぐらいいてもおかしくはない。しかし、子供が生まれたことが「復活」の意味だとするならば、それは奇跡でもなんでもない。そこに宗教的意味を見出すことはできない。イエスの復活は、弁証法的に理解されるべきであり、歴史的事実と宗教的解釈は区別しなければならない。
『聖書』を買うなら、以下の新共同約がお薦めです。『旧約聖書』と『新約聖書』の全文に加え、アポクリファ(外典/第二正典)までが収録されていて、この値段ですから、お買い得です。『聖書』は最もよく引用される本ですから、通読するつもりがなくても、一冊手元において、辞書みたいに使うとよいでしょう。
| 書名 | 聖書―新共同訳 |
|---|---|
| 媒体 | 文庫 |
| 著者 | 共同訳聖書実行委員会 他 |
| 出版社と出版時期 | 日本聖書協会, 1996/01 |
『旧約聖書』が不要なら、これがお薦め。
| 書名 | 紙装 小型新約聖書 |
|---|---|
| 媒体 | 文庫 |
| 著者 | 共同訳聖書実行委員会 他 |
| 出版社と出版時期 | 日本聖書協会, 1998/02 |
四つある福音書の中で、原型となったのは『マルコによる福音書』であると考えられています。マルコは、パウロの通訳で、『マルコによる福音書』は、パウロが語ったイエス伝を編集したものと考えられます。パウロが書いた書簡としては、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙1と2、ガラテヤの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙1、フィレモンへの手紙の七通が本物です。『新約聖書』が正典化されたのは、393年のヒッポ会議、397年のカルタゴ会議においてです。




