読みにくい漢字があるので、[論文編:聖徳太子とは誰のことか] の振り仮名付き版を分割して作成しました。このページは、「聖徳太子とは誰のことか(仮名付き4)」の続きです。なお、このページを振り仮名付きで閲覧するには、ブラウザとして、Internet Explorer を使う必要があります。
3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか(続き)
鎌足は、得意の権謀術数により、晩年は天智天皇のもとに強大な権力を握る。ただ、鎌足にとって、一つ計算外のことが起きる。壬申の乱である。天武天皇の勝利により、天智側と結びついていた藤原家は一時没落の危機に晒されたのだ。しかし、鎌足の子・不比等は、我が子(草壁皇子)を次の天皇にしたいと願う鵜野讃良皇女(天智天皇の娘で天武天皇の后)に接近し、権力の中枢と結びつくことに成功した。天武天皇の死の翌月、有力な天皇候補だった大津皇子が、冤罪により自殺させられている。明らかに不比等の謀略である。ところが、草壁皇子は、天武天皇の喪が明ける前に、28歳の若さで死亡する。
そこで、鵜野讃良は、草壁皇子の遺児である軽皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、自ら持統天皇として即位する。4年後、藤原京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。不比等は、皇位継承を確実にするために、689年の飛鳥浄御原令において皇太子制度を作り、軽皇子を最初の皇太子にした。『日本書紀』が、立太子制度が神武以来存在したように書いているのは、立太子制度を既成事実化するためである。天武天皇の第一皇子で、持統朝で太政大臣を務めていた、つまり有力な天皇候補だった高市皇子が死亡した(暗殺された?)翌年、持統天皇は皇位を孫の軽皇子に譲った。これが文武天皇である。ところが、文武天皇は、25歳の若さで死んでしまった。
そこで、やむなく文武天皇の母が、文武天皇の遺児である首皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、元明天皇として即位する。3年後、平城京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。この時、不比等は、こう考えたはずだ。自分の孫・首皇子は病弱で、先が不安だ。持統系皇族の外戚となって、権力を掌握しようとする自分の計画は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊のたたりがなせる業に相違ないと。
不比等の父は鎌足で、持統の父は天智天皇(中大兄皇子)である。鎌足と中大兄皇子は、蘇我一族を滅亡させた。だから、「子孫断絶となった蘇我一族の怨霊は、鎌足と中大兄皇子の子孫を断絶させることにより、復讐をしている。白村江の戦いや壬申の乱での敗北も草壁皇子や文武天皇の夭折も、すべて蘇我氏のたたりだ」と不比等は考えたに違いない。
怨霊の災いから逃れるには、遷都のような消極的な方法ではなくて、鎮魂という積極的な方法が必要である。歴史書を執筆し、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければならない。だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまう。そこで、蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる。不比等は、こう考えたわけだ。
かくして、聖徳太子伝説が誕生する。聖徳太子伝説が誕生したのは、文武天皇死没の5年後にあたる712年頃である。法隆寺が再建されるのもこの頃である。梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であると主張したが、この見解に対しては、従来、なぜ山背大兄王や入鹿ではなくて、厩戸皇子が怨霊とされなければならないのかという批判が投げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子を厩戸皇子という特定の個人ではなくて、蘇我一族全体を祭った神と考えるならば、そうした疑問は氷解する。
古くから日本には、子孫断絶となった政治的敗者は、たたりをなすと考える怨霊信仰がある。その際、複数の被害者が、一つの神へと祭り上げられるという現象がしばしば起きる。例えば、『古事記』や『日本書紀』は、大和三輪山のオオモノヌシと出雲のオオクニヌシを同一神としているが、両者は本来、別々の神だったはずだ。それが、邪馬台の東征の被征服者という共通項によってくくられ、同一視されてしまった。
藤原氏の怨霊に対する恐怖心は、不比等の四人の子が相次いで死亡するという737年の劇的な出来事を境に、エスカレートしていく。その頃になると、怨霊に対して、恥も外聞もなく自分たちの非を認め、高位高官を追贈するなど、怨霊鎮魂のサービスも過大になる。だが、不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので、聖徳太子伝説が怨霊信仰の産物であることが非常にわかりにくくなっている。
『日本書紀』は、天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっている。しかし実際には、『日本書紀』は、中立的な立場から編集された歴史書ではなく、藤原氏の政治的思惑によって、歪曲されている。不比等は、それをもカムフラージュするために、自分を『日本書紀』の編集者であることを公言しなかった。
私たちは、藤原氏による歴史の歪曲と怨霊信仰のからくりを理解し、聖徳太子の正体を正しく認識しなければならない。特にこれまで極悪人扱いされてきた蘇我馬子を再評価するべきだ。蘇我馬子は、野蛮だった日本を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家だったのだから。