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3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか
『日本書紀』の編者は、舎人親王であるということになっている。しかし、本当の編集責任者は、藤原不比等だという説が有力である。『日本書紀』では不比等の父である鎌足の功績がことさらに粉飾されていること、最初は「フヒト」に「不比等」ではなくて、史書編集とのつながりを示す「史」という字が当てられていたこと、『日本書紀』が編集されていた頃、不比等が、その名のごとく、他に並ぶものがないほどに権力の絶頂にあったことを考えると、不比等が、『日本書紀』の内容に口をはさまなかったと考えることは非現実的である。
では、藤原不比等は、なぜ『日本書紀』の編集責任者であることを名乗らなかったのだろうか。実は、これは極めて藤原氏らしいやり方なのである。藤原一族というのは、現代の日本の政界で言えば、経世会のような、自らは権力の表舞台に立つことなく、傀儡を背後で操るキングメーカー型の政治家集団である。鎌足も不比等も、生前は最高位の太政大臣になっていない。しかし、それ以上に、不比等には、『日本書紀』の編集責任者であることを表立って名乗ることができない事情がある。
『日本書紀』によれば、馬子の孫・入鹿は、人望を集めていた聖徳太子の子・山背大兄王の一族を殺害した。そのため入鹿は、父蝦夷とともに、乙巳の変において、中大兄皇子と鎌足たちから、正義の報復を受けて、殺された。私たちは、この勧善懲悪のストーリーをそのまま受け入れてよいだろうか。
『日本書紀』をもっと詳しく読もう。そこには、山背大兄王を直接襲撃したのは巨勢徳太だと明記されている。もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、入鹿とともに、巨勢徳太も乙巳の変で処罰されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太は、大化の改新で、処罰されるどころか、左大臣にまで昇進している。これは一体どういうことなのか。
『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子とは誰のことなのか。一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数形であるから、少なくとも、もう一人必要である。巨勢徳太が、軽皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはずだ。
『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。『上宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、古書を調査して書いた本であり、無視できない。このリストを見ると、蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわかる。即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。
中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからないが、この男の正体は何か。大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外考えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。
鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、蘇我氏内部の争いを利用しながら、蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手にした。即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害し、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。この鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する。
その中でも、クライマックスは蘇我入鹿の暗殺である。石川麻呂は三韓貢進の日だと言って入鹿を内裏に誘き寄せ、石川麻呂が上表文を読み上げている時に、中大兄皇子自らが、入鹿を切りつけた。鎌足も弓矢を携えて、暗殺に参加した。『日本書紀』は、そう書いている。しかし、これは、中大兄皇子と鎌足を英雄と印象付けるための脚色ではないだろうか。
もし本当に、当日、新羅、百済、高句麗の使者が来ていたならば、彼らは目撃したこのショッキングな事件を本国に報告するはずだが、三韓の歴史書はどれもこの事件を記録していない。それならば、三韓の使者が来たというのは、入鹿を誘き寄せるための嘘で、入鹿は、三韓の使者を装った刺客によって殺されたと考えることができる。こう考えれば、従来、不可解とされてきた古人大兄皇子の目撃証言「韓人、鞍作臣(入鹿のこと)を殺しつ」を理解することができる。
『日本書紀』の執筆者は、政治的思惑を持たない官吏である。編集責任者である不比等は、自分に都合の良いように、部分的に修正を加えただけに違いない。部分的な捏造は不整合を生み出す。その不整合を解消するべく、整合的な歴史解釈を再構成する時、不比等がどのような思惑で歴史を歪曲しようとしたかが見えてくる。
不比等が目指したのは、大化の改新の正当化である。中大兄皇子と鎌足の功績を美化するためには、二人によって排除された蘇我氏を悪玉にしなければならない。蘇我氏を悪玉にするには、入鹿によって殺害された山背大兄王の兄弟や子供たちを、したがってその祖である厩戸皇子を聖徳太子として善玉にしなければならない。こうして、おなじみの勧善懲悪のストーリーが生まれた。
しかしながら、この説明は、なぜ『日本書紀』が、聖徳太子という人物を捏造し、それを神のごとく崇めるのかという問いに対する答えとしては、不十分である。聖徳太子信仰の萌芽は、712年に完成した『古事記』に登場する「上宮之厩戸豊聡耳命王」という言葉に見て取れる。それゆえ、712年から『日本書紀』が成立する720年にかけて、不比等がどのような状況に置かれていたかを見なければならない。
能のことは良くわからないが、金春流というのがあるようですが、どかかによく出てくる金春秋と似ていると思うのは、私だけではないような気がします。
それにしても、日本史は面白いですね。明智光秀が生きていたと思われるとか、まだまだ隠されている事実が多いように思えます。
昔の天皇の古墳が、早く公開される日が待ち遠しいです。