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2. 聖徳太子の業績は誰の業績か(続き)
2.3. 遣隋使の派遣
続いて、遣隋使の派遣を考察しよう。607年に、日本が小野妹子を隋に派遣し、翌年、隋が裴世清を日本に派遣したことは、『隋書』『日本書紀』双方に記載されているので、史実である。問題は、この隋との外交の主導者が、聖徳太子、即ち厩戸皇子であったかどうかである。実は、『隋書』も『日本書紀』も、聖徳太子ないし厩戸皇子には、まったく何も言及していない。『日本書紀』は、冠位十二階の時と同様に、「大礼小野臣妹子を大唐に遣す」といった主語なしの文で、記述している。
遣隋使派遣における厩戸皇子の役割を論じる前に、もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、隋側は、男王と記録している問題を取り上げよう。『隋書東夷伝』には、第一回遣隋使派遣に関して、次のような記述がある。
「開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏彌と号す、使を遣して闕に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う『倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我弟に委ねん』と。高祖曰く『これ太いに義理無し』と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌と号す。後宮に女六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利と為す。」
日本の天皇には姓がない。また、当時はまだ立太子制度がなかった。しかし、隋は、中国式のスタンダードに当てはめようとしている。『隋書東夷伝』は、日本の天皇の固有名を「アメ・タリシヒコ」と認知したわけだが、当時の日本人にとって、天皇の実名を口にすることはタブーだったから、日本の使者が口にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対に天皇の実名ではない。それは天皇を意味する普通名詞、あるいはせいぜい、見本などによく書かれる「山田太郎」のような、天皇のデフォルトの名前である。だから、この天皇が誰であるかはわからないが、「山田太郎」と同様に、少なくとも男であることはわかる。妻がいるのだから、明らかに男だ。
「和歌彌多弗利」の方は、隋も普通名詞であることを認識している。「わかみたほり」は、後に音韻変化により、「わかんどほり」となる。この言葉の意味は、古語辞典を引けばわかるように、「皇族」である。隋は、たんなる皇子を皇太子と誤解したわけだ。なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利」は、厩戸皇子や山背大兄王に結びつかない。
この、謎の男の天皇が誰であるかは、後で考えることにして、日本の使者と隋の皇帝・文帝との対話の解釈に入ろう。日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、皇帝は、「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせたと書かれている。
日本側がばかげた風俗を紹介したので、皇帝が「ばかなことを言うな」と怒って、愚かな風俗を是正するように教育したのだろうか。そうではない。隋の皇帝は、中華思想の持ち主だから、辺境の野蛮人がばかげた習慣を持っていると聞けば、文化的優越を感じて満足することはあっても、怒ることはないし、ましてやその是正を指導するなどということはない。そもそも、もし、日本の使者が意味不明のことを言ったとしたなら、隋はそれを記録にとどめないはずだ。614年の遣隋使のように、注目に値しないと判断されれば、『隋書』には書かれない。
現代人は、隠喩に鈍感になっているが、ここで、古代のディスクールにおいては、メタファーが重要な役割を果たしていることを思い出さなければならない。中国の皇帝は、自分を天子、即ち「天の子」と認識し、日本の天皇は、自分を太陽神であるアマテラスの子孫と認識している。だから、日本の使者が言う「天」とは中国のことで、「日」とは日本のことと解釈できる。
すると、日本の使者のメッセージは、「わが国の王は、中国と日本の関係を兄と弟の関係と考えている。日の出の勢いの新しい文明国、日本が登場するまでは、中国は東アジアの盟主として、あぐらをかいで安閑としていられた。しかし、今や、中国は、国際政治の主導権を日本にゆだねる時が来た」ということになる。これを聞いた、隋の皇帝は、「ばかなことを言うな」と怒り、かつ軽蔑し、「隋と倭の関係は、兄弟ではなくて君臣の関係だ」と訂正を迫ったのではないだろうか。
『日本書紀』は、この1回目の遣隋使に触れていない。それはなぜだろうか。『日本書紀』は、『旧唐書東夷伝』に書かれている631年の遣唐使にも触れていない。『旧唐書東夷伝』によれば、この時、唐の使者が王子と礼を争ったとある。このような外交的失敗は、記載しないというのが『日本書紀』の編集方針のようだ。
1回目は、失敗に終わったが、「タラシヒコ」と称する謎の男は、隋との対等外交をあきらめなかった。こうして、607年に、2回目の遣隋使が派遣される。隋の二代目皇帝・煬帝は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、前回にもまして対等な関係を要求する国書を見て、不快感を示すが、日本に使者を派遣することにした。2回目は成功した。『日本書紀』も、隋の使者・裴世清の日本訪問について詳しく述べている。
『日本書紀』によれば、隋の国書は、「大門の前の机の上に」置かれただけである。だから、裴世清は、奥の内裏にいる天皇に直接会っていないと主張する人もいるが、『隋書東夷伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれているので、「大門」は「大きな門」ではなくて、「天皇」と理解しなければならない。さらに、この時、裴世清が倭王と思って言葉を交わした相手は、『隋書東夷伝』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。
候補は二人しかいない。蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。
いったい、遣隋使の責任者は、どちらなのか。私は、馬子だと思う。2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸皇子ではなくて、馬子だったのだ。『日本書紀』に登場する「大門」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門」とよばれていたことからも裏付けられる。
ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。
超大国・隋と対等な立場で国交を結ぼうとすることは、一見無謀な試みのように見える。しかし、馬子は、598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。そして、それは成功した。
2.4. 文化的事業
聖徳太子は優れた政治家であるだけでなく、優れた文化人でもあるということになっている。特に、『勝鬘経』、『法華経』、『維摩経』の注釈書である『三経義疏』は、聖徳太子の高度な仏教理解を示すものだと言われてきた。だが、『三経義疏』は、聖徳太子が著したとは言いがたい。『勝鬘経義疏』は、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文で、日本製ではなくて中国製と考えられている。『法華義疏』は、『東院資財帳』が示唆しているように、8世紀に行信が捏造したものである。『維摩経義疏』に関しては、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも、聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。
聖徳太子は、馬子とともに、国史の編纂を行ったと言われるが、その成果である『天皇記』も『国記』も残存していないので、その真偽を確かめる術はない。ただ、『日本書紀』によると、乙巳の変の時、『天皇記』も『国記』も蘇我蝦夷の邸宅内にあったとされているので、仮に、馬子と厩戸皇子の共同編纂だとしても、主として馬子が編集していたのであろうと推測される。
2.5. 結論
以上の考察から導くことができる結論は、聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。では、『日本書紀』の編者は、なぜ、馬子の業績を馬子の業績と明記しなかったのか。なぜ、厩戸皇子を聖徳太子として聖人化しなければならなかったのか。この問いに答えるためには、誰が何のために『日本書紀』を書いたのかを考えなければならない。