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システム論は独我論的か

[Living, Loving, Thinking - 永井俊哉/ジェンダー/廣松渉] へのトラックバック。「社会学・社会理論専攻のSUMITA」さんが、[論文編:認識するとはどういうことか]に投げかけた疑問に答えます。

「システム」を「主体」とするということはどうなのだろうか。「廣松は、《我》の独我論を否定したものの、《我々》の独我論に陥ってしまった」というのは永井氏にそのまま返ってくるのではないだろうか。〈システムの独我論〉として。

システムは、常に環境と相関的な関係にあります。システムの機能は選ぶことですが、選ばれない選択肢があるからこそ選ぶことに意味があるわけで、《他のようではありえない》選択は、選択ではありません。私の他者論に関しては、[論文編:他者は存在するのか]をご覧ください。

廣松先生は、個の実体化のみならず、全体の実体化をも否定する関係主義のテーゼを打ち出しておられるので、「《我々》の独我論に陥ってしまった」という評を不満に思われるかもしれません。しかし、廣松哲学は、外部に物自体の存在を認めないヘーゲル的な汎神論の影響下にあって、他者は、我々を構成している他者であって、我々とは異なる他者ではありません。

昔、ゼミで私が相対主義を主張したところ、「相対主義が正しいと主張するなら、どこかに絶対主義的な確信があるのでは」と廣松先生から言われたのを覚えています。相対主義自体を相対化できるのかという問題です。二値論理学的には、自己否定はパラドックスをもたらしますが、多値論理学的、つまり様相論理学的には、そうではありません。これについては[論文編:確率の認識と認識の確率]をご覧ください。

[投稿者:Nagai Tosiya|コメント:1個|この記事をYahoo!ブックマークに登録する この記事を含むlivedoorクリップ この記事をFC2ブックマークに登録する この記事をニフティクリップに登録する この記事を含むはてなブックマーク この記事のはてなブックマーク数
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コメント(1)

廣松先生の謦咳に接するとはすごい体験ですね。

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